人魚
2nd day[wednesday]:a little irritation
「おはようエドワード」
心臓が止まるかと思った。―――どんな悪夢だと思って。
人でも殺しそうな勢いでキッチンナイフを振り下ろし、肉なら昔取った杵柄だ、ベーコンをだんだんだんと切っていく。それから憎しみさえ感じさせる勢いで卵をぱきんぱきんと割る。一瞬生クリームのパックにイヤな顔をしながら、それでもそれもいくらか投入。調味料も適当に投入。それをざっとかき混ぜる。レタスを断罪する勢いでもいで、さっと洗って。フライパンにはバターをひとかけ落とし、適当に広げる。そこにかき混ぜた卵をざっと流し入れ、ふつふつとしてきたのを適当にかき混ぜる。用意しておいた2枚の皿にレタスをざっと振りわけ、スクランブルエッグを先によそってしまう。
トースターに一瞬憎々しげな目を向けた後、さっとペーパータオルでフライパンを拭き取ると、ベーコン投入。
「エドワード、油とかバターとかいらないのかね」
「オレは朝からほんとは脂っこいもの食いたかねえんだよ。ベーコンなんて脂の塊みてーなもんだからいらねぇ」
ダイニングテーブルで一連の動作を見ていた傍迷惑な期間限定(但し期間の見通し不透明)同居人が、のんきな声を掛けてきた。それに冷たい声で淡々と応じるエドワードは、振り向きもしない。
やがてじゅうじゅうとベーコンが焼けていく。
「…なんだか朝から機嫌が悪いね」
そんな少年に、さっぱりわかっていないというか空気の読めていない(或いは読む気がない)男が、重ねて問いかける。
「…誰かさんのお蔭でな…」
エドワードの声はいよいよ陰にこもる。
「ほう。君を不機嫌にさせるなんて、随分な不心得者がいたものだな」
「……………。腹が減ったからトーストを焼こうと思って、その際火力を調整しようと閃きのままありえねぇ改造を施しオシャカにした挙句、つーかパンもきちんと切れず焼けず、もうどうしようもなくなってから朝飯作れと人のこと起こしに来たヤツがいてな…」
エドワードはとうとう振り向いた。
ただし、今度はフライパンを手にして。それでロイの頭をかち割るため―――では勿論なく、中身を皿によそうためだ。
スクランブルエッグの脇にカリカリに焼いたベーコンを置き、皿の一枚をロイの前へ押し出す。
その時、ちょうどタイミングよく、エドワードが朝一番で補修したトースターが、復帰第一号とでも言うべきトーストを生産した。戦線復帰おめでとうトースター。我々は君の復帰を心から歓迎するbyエドワード(ひとりでも複数形)。
デカンタからコーヒーを注いで、マグごと忌々しげに押しやって、冷蔵庫を壊させるわけにはいかない、とバターやジャムも出してやる。もう、こいつには何も触らせない方針で行く事が、エドワードの脳内会議にて満場一致で採択されている。
「エドワード」
「なんだ」
「…チーズはないのか?」
「そんなものはない」
「じゃあ蜂蜜は?」
「あるわけねぇだろんなもん」
「………はぁ」
品揃えが悪いな、と暗に言われているような溜息に、エドワードの血管は決壊寸前。
あまりに悔しかったので保存棚を漁ると、一応大丈夫そうなメープルシロップが出てきた。
「…シロップあったぞ」
「…アカシア蜜は?」
「貴様一遍死んで来い」
文句は許さん、と態度で示せば、渋々シロップを受け取る。メープルシロップだって、このあたりでは結構珍重される品だというのに。
「エドワード」
「なんだよまだあんのか?」
「パンケーキが食べたい」
「……………」
「…明日でいいから」
ハァー、と今度はエドワードが深々と溜息をついた。
「…後でな…」
これじゃ子持ちになったのと変わらないだろ、とエドワードは朝から疲れた気持ちで一杯になった。
朝食を終え、片付けも済ませ、ようやくエドワードはリビングのソファに腰を降ろした。
なんだか、すごく疲れた。
辛うじて顔を洗うくらいの暇しかなかったので、髪は適当に括っただけ、服は昨夜着て寝たトレーニングウェアとTシャツのまま。その上に、用意されていたエプロンをひっかけた格好で、エドワードはぐったりソファに沈みこむ。
思わず世の主婦達を尊敬してしまった彼である(ちなみに彼は、普通の家では朝っぱらからトースターを分解して使えなくするような家族は抱えていない、ということを忘れている)。
「………」
そのまま目を閉じ、うつらうつらとし始める。
ああ、今日は天気がいいらしい。そうだ、洗濯しないとな…などとぼんやり考えながら、エドワードは目を開けられないでいる。規則正しい生活に慣れていないのだ。
やがて、すー、と静かな寝息が聞こえ始める。
それは安らかな寝顔だった。…と同時に、なんだか初々しい新妻のような雰囲気があった。
わずかに傾いた顔にほつれた金髪がかかり、ラフ過ぎる服装の上にエプロンをしたままの格好で、くたっと体を投げ出しているせいだ。慣れない家事に疲れ切った姿、としか…。
「エ…」
ドワード、と口だけ勢いのまま動かしたのは、それを見つけた記憶喪失中の同居人だ。
彼は軽く目を瞠って、まじまじと少年の脱力しきった姿を見つめる。
…そういえば…、と彼は考えた。
今朝、まだぐっすり寝ていた彼を起こしたのは、自分だった。
どうやら記憶を失う前の自分は相当規則正しい生活をしていたらしく、朝は六時かっきりに目がさめた。空腹を覚え、だがエドワードを起こすほどでもない、とぼりぼり菓子を食べたものの、何となく満足できず、そうだ、トーストならトースターに入れればいいだけだろう、と安直に考えたのが運のツキ。焦げ目がついている方が美味しそうだ、と考えた彼は、その調整に関してありとあらゆる改造計画を立案した。
それはもう、いくつもいくつも。数え切れぬほど。
そして考えたことをすぐ実行したくなるのは、研究者の性なのか。
―――結果だけ言うなら、彼の知的好奇心という侵略者によって、トースターは名誉の戦死を余儀なくされた。その後エドワード司祭によって復活の栄誉に浴し、見事戦線への復帰を遂げはしたけれど。
…名前を呼んでも起きなかったので、最初は肩を揺すった。しかし眉間に皺を寄せるだけでやはり起きなかったので、もっと顔を覗きこむようにして、ついでに毛布からはみ出ていた手首を掴んで、少し大きめの声で名前を呼んだ。
それで一応目を覚ましたようなのだが、目覚めた後の、あの呆然とした顔が忘れられない。
…まあよく考えれば無理もないのだが。
起きた瞬間手首を拘束され、至近距離から顔をのぞきこまれていれば、誰だって驚くだろう。彼もまた、ただでさえ大きな目をさらに、こぼれんばかりに見開いて、言葉を失っていた。
その後エドワードは、トースターを復活させ、腹が減ったというロイのために(正しくは、彼の破壊活動による被害をこれ以上広げないため)さっさと朝食を作り、片づけまでして、今ようやく一息ついているのだ。邪魔してはいけないな、とロイは思った。