人魚
そうではなくて、他に反省する事が山ほどあるだろう、といったところだが、そんな素直なタマではなかった。…だがまあそれはそれとして、とにかく、今は腹も満たされたし、エドワードの手を煩わせることはないだろう。そう殊勝にも?判断した彼は、珍しく気を利かせ、自分が羽織っていたカーディガンを少年にかけてやったのだった。
―――ふわりと寄せられた温もりを、夢現に嬉しいと思った。
「………」
不意に目が覚めて、エドワードは呆然と室内を見回す。それから、自分にそっと掛けられていた黒いカーディガンの存在に気付いた。無言でそれを持ち上げ、複雑な表情で見つめる。
本当に、今朝は心臓が止まるかと。
他人の顔をあんなに間近で見たのは、一体いつぶりだろう。目覚めたときに、温もりある他者がいたのは、いつぶりだろうか。
不意に、先のことを思って暗澹たる気持ちがこみ上げた。一体いつまで、自分達―――つまり自分と弟は、宛てのない旅を続けるのだろうか。今と違う未来はあるのだろうか。
普段は立ち止まることなく目的に向かっているから、こんなことを考えたことはなかった。だがいま、成行きとはいえ一つ所に留まるエドワードに、とうとう不安という怪物の長い指が追いついた。
しかし、それでも、窓から射すやたらに明るい陽射しが、それでもエドワードを暗い場所から引き上げてくれる気がした。
太陽の光がこんなに明るいものだと、なんだか忘れていたような気がする。
随分明るいが、もしかしてもう昼近いのだろうか?
カーディガンを握り締めたまま、彼はきょろきょろと時計を探した。…そして、始めて気付いたのだ。
「…!」
三人掛けのソファ、エドワードの反対側に座る人物に。
彼もまた、膝に本を開いたままの姿勢で、うつらうつらと舟をこいでいた。
―――ありえないほどに、平和な光景だった。涙が出そうなほど。
このままでは立ち方も息の仕方も、何もかもわからなくなってしまうような、そんな危機感を、わずかに抱いた。
そよ、と微かな風が耳元をくすぐり、それに乗ってきたのだろう、近所の子供達の元気に遊ぶ声が聞こえてきて、ロイは目を開けた。肩にはカーディガンが戻ってきている。
「………」
新妻、…もとい同居人を探せば、彼の姿はなかった。
しかし庭に続く窓が開いていて、視線を流せば、そこで元気に動く、小さな人影。
少年が、せっせと洗濯物を干していた。といっても、量はそんなになかったようで、昨夜使ったバスタオルとか、そういったものばかりだ。
「………」
自分は記憶を失ってしまったと聞かされている。
だが、国の成り立ちと、己が錬金術師であったことだけは、確かに覚えている。というよりも、ある法則を知り、それを行使する者である、という事実は、体にこそ残っていた。彼は自分のものだという手袋を見た時、息をするように自然に、そのことを感じていた。
説明によれば、自分は国軍の大佐だという。
大佐といえば結構な高官だ。なんでも、軍の中でも若手というか、出世頭らしい。そう説明されて、まあ悪い気はしなかった。
だが、「エライ」ということは、それだけ責任も重いということだ。
自分に記憶が戻らないと、色々厄介なことになる、というのは何となく理解していた。だが、こればかりは焦ってもどうしようもない。
医師によれば一時的なものだという診断だったので、ここは焦らず構えるしかないか、と思っていた。楽天的過ぎるかもしれないが、実際、他にどうしようもないのだ。致し方あるまい。
「あ」
洗濯物を干し終えたエドワードが、こちらに気付いて声を上げた。
先ほどほつれていた髪の毛はきっちり編み込まれ、服装も、ラフではあるがそれなりにきちんとしていた(いつもの服装では目立つから、と彼もまたごくありふれた服に身を包んでいる)。
「あんた、二度寝するなら朝もうちょっと寝てろよなぁ」
呆れた様にぼやきながら、少年は室内に入ってきた。白い綿シャツの、捲り上げられた袖から露になっている、鋼の義手。
―――彼と自分はどういう関係なのか、と粗方の事情を説明してくれた女性に尋ねたところ、少し考えた後、彼女はこう言った。
仕事上の関係者というのが一番正確ですが、ご同業ということもあり、年の離れた友人関係…というように、お見受けしておりました。
私見ですが、と付け加えながらの彼女の説明に、友人、と繰り返し。まあ確かに年は離れているなあと思ったが、年齢と実力は必ずしも比例するとは限らないように、性格もまたそうだ。人の相性も。
「…なんだよ」
無言でじっと見ているロイに、気味悪そうな顔をしてエドワードが口を尖らせる。それににこりと笑って、男が言ったことといえば…。
「…腹が減ったんだが」
「…はっ?」
「普通、昼寝から目が覚めたら何か甘い物とか出してくれるのではないかね」
記憶がなくなっても口調はかわりないロイが、何様ですかという態度でそう言うので、エドワードは怒りも呆れも飛び越えて呆然としてしまった。
「…あんたいつか糖尿病になっても知らないぞ、オレは」
とげとげしく言い返されたが、ロイは構わず笑った。
弾むような受け答えが、なぜか嬉しかったのだ。
―――エドワードはそれとは対照的に、苦虫を噛み潰したような顔をしていたけれど。