人魚
3rd day[thursday]:memories
「…飽きねぇの?」
頬杖をついて、少年は呆れたように尋ねてきた。いや、追加修正。「心底」呆れように、尋ねてきた。
三時のおやつのパンケーキを満足げに味わっていた男は、顔を上げ、自分はコーヒーを飲んでいる少年を見つめた。
「…飽きないが?」
「あんた、昨日も今朝もそれ食べたじゃん…」
「昼は食べていないぞ」
「いや、そうだけど…」
そんなにうまいのか、それ、と少年は幾らか不思議そうだ。
「美味しいが」
「……………………」
「君が同居人で助かった。私には逆立ちしてもこれはきっと作れない」
「ああそれはそうだろうともよ」
エドワードは半目になって、間髪入れず肯定した。
「…傷つくじゃないか。少しくらい考えてくれても」
「少し考えても一杯考えてもあんたの殺人的不器用さが変わるもんでもねぇだろ」
ずずー、と彼はコーヒーを啜りながら答える。にべもない。
「も、ほん…っと、あんたはなんも触るんじゃねえ。最低限、なにも」
共同生活も三日目なら、エドワードが被った害も迷惑もまた、三日分。エドワードの声には、既に覇気が感じられない。文句というより、もはやそれは懇願だった。
「了解した。私には異存はない」
「あってたまるか、バカ。…なあ、なんか思い出さねぇの?」
ハァ、と溜息まじり、いくらか本気の度合いが強い声で尋ねれば、いやまったく、と首を振られた。それには肩を落とすエドワード。
「…だよなー…」
記憶の欠片なりともよみがえっていたのなら、まさか小さな子供のようにパンケーキなんぞねだったりしないだろう。
まさか、あの「ロイ・マスタング」が。
…まあ、それを言うなら、自分だってまさか住宅地の片隅でパンケーキ作りに精を出す日が来るとは夢にも思っていなかったわけだが。
「エドワードは食べないのか?」
首を傾げたロイは、それに留まらず、まさに自分が食べようとしていたらしい、フォークに刺さったままのひとかけらをエドワードに差し出した。
…どうしろと?
少年のこめかみがひくついた。
「いらな…」
言いかけた口の中に、無理やりというか…、すかさずフォークが突っ込まれた。もふ、と言葉は詰まる。だが、睨み付けようにも、目の前の男は至極穏和な様子でいるのだ。
まったくもって腹立たしい。
「コーヒーばかり飲んでいると、胃によくないよ」
仕方なく咀嚼するエドワードに、ロイはマイペースに言った。
ご馳走さまと行儀よくロイが食べ終えると(食事のマナーは悪くなかった、あくまで、食事「中」のマナーは)、エドワードは皿を洗うべく席を立った。ロイに任せると想像を絶する最悪のケースで皿を割ることが予想されるため、もう最初から触らせないに限るのだ。後の面倒を思えば、初めからやってしまった方がいい。
たとえば…そこでそれでも「子供」に任せるのが「母親」のやり方だろうし、教育というものでもあるが、生憎エドワードはそこまで気が長いタイプでもなかった。
コーヒーを啜りながら、ロイは洗い物をするエドワードの背中を見ている。三つ編みにしきれない後れ毛が、白いうなじにかかっているのが見えた。どうも彼はそれが鬱陶しいようで、洗い物をしつつも気になっている様子だった。
「…………」
ただ、穏やかな時間。
今のロイは知らない。それが、どんなにありえないことであるかを。
…望むことすら許されないような、そんな環境に、自分達がが生きているということを。
それでも何か感じることはあるのか、彼は目を細め、何とも言い難い表情でエドワードを見ていた。
年の離れた友人。同じ錬金術師。軍人ではないが、軍に隷属する錬金術師。
自分を含め、錬金術師というやつは、余程のことがない限り常人には交われないものと思ってきた。それくらいなら確かに、軍に入る方がまだ居場所があるような…。だが、今の少年を見ていると、その考えが揺らぐのを感じる。
「錬金術師よ大衆のためにあれ」。
ずっと、その言葉は枷だと思ってきた。己の力に溺れて身を滅ぼさないための、戒めだと。或いは、確かに、趣味の延長のような研究に意義を与えるための言葉かもしれない、そういう側面もないことはないだろう。
大衆のためにあれ。
そう言う時、その「大衆」に「自分」は含まれているのか、否か。
ずっと、含まれていないように感じていた。いや、含めて考えたことがなかった。だからこそ白々しく思っていたのだ。しかし、そういう線引きをすることがそもそもナンセンスなのだろう。少年を見ているとそう思う。彼がそういう、つまり軍に属するという立場になった経緯はわからないが、それでもその伸びやかな態度を見ていると、そんなロイの醒めた感想こそ下らないものだと感じる。錬金術師が大衆に受け入れられないのではなくて、それこそ自分から線を引いて、何か特別なものになった気になっていたのではないかと…。欲望は誰が抱いても欲望、それ以上でも以下でもない。たとえそれに、どんな名前がついていようとも。
年の離れた、友人。
「いや…」
小さく否定の言葉を呟いて、ロイは情報を修正した。
年の離れた、「尊敬すべき」友人、と。
「…あ?」
ふいに、皿を拭きながら、その尊敬すべき小さな友人が振り向いた。不思議そうな顔をしている。
「なんか言った?」
「いや?なにも」
「ふーん…」
なんか聞こえた気がしたんだけどな、と少年は怪訝そうに首を傾げる。
「疲れてるんじゃないか」
…が。
そんな言葉を、疲れさせる原因に掛けられて、彼は目を吊り上げる。
「そりゃもう!誰かさんのお蔭で盛大にな」
「ああ、それは可哀想に」
「………。あんたの頭が可哀想になってきたよ、オレは」
全く嫌味にも堪えていないロイに、エドワードは溜息を零す。
「しかし、君は随分家事に手馴れているんだね」
「あ?そうかー?そんなことねぇだろ」
エプロンで手を拭きながら首を傾げる姿は妙にはまっていて、ロイはくすりと笑った。
「…立派に主婦だと思うが?」
「てめ、未成年捕まえて主婦とはよく言ったよ…」
むすっとした顔になる少年に、心外だ、とばかりロイは眉をひそめる。
「誉めたんじゃないか」
「どこがだよ!」
「料理が上手い」
「………………」
エドワードは驚いたように目を見開いて、それから、目をそらしそっぽを向いた。若干照れているようだった。
「…あんたができなすぎんだよ…」
「収納も上手い」
「…旅慣れてるからな」
「掃除も出来る」
「…片付けねぇとアルが怒んだよ」
エドワードがしばらくロイの面倒を看る、ということになった時引き合わされた、鎧の弟を思い出し、彼は目を細めた。その外見の割に、丁寧で物腰の穏やかな印象を受けたのを覚えている。少なくとも、言動は兄より大人しかった。
「洗濯も出来る」
「…洗うだけだろ?」
「それに」
一端笑って区切ったロイに、エドワードは小首を傾げる。
「私の扱いが、上手だ」
そう言うと、ロイは愉快そうに笑った。
エドワードはというと、鳩が豆(…)鉄砲食らったような顔で絶句している。
「君がいてくれてよかったと思っているよ」
そんな少年に、ロイはますます笑みを深めてそんなことを言うのだ。