冬の旅
リーマスはリリーから目をそらして言った。リリーの震える指先はあっと言う間に冷え切った。身体の芯は熱いのに寒く、椅子に座っていても上半身がぐらぐらと揺れる。
「はっきり言ってスネイプがヴォルデモートに連れ去られたと考えたほうが何倍もいい。でも」
「そんなわけないっ」
真っ赤な目をしてリリーは叫んだ。リーマスが口にした「でも」の後を聞きたくない。不幸だったあの子がまた不幸に落ちていくって言いたいの? 自分から?
「お願い、そんなこと言わないで。やめて」
口に手をあて首を振るリリーの姿に、リーマスはテーブルに肘をついて頭を抱えた。気の強い彼女の顔が崩れていくのを見ていられなかった。自分でもシリウスやジェームズといった親友が同じような事態に陥ったら彼女と同じように泣き崩れる。幼馴染がこんなことになるなんて彼女の心中は察してあまりあった。
「このことは皆に話さないわけにはいかないぜ」
背中を向けたまま、低い声でシリウスが言った。
「俺たちの仲間に大きく関係あるヤツがあっち側に行ったんだ」
「決めつけないでっ。まだわからないでしょ? 突然旅行がしたくなったのかもしれない。ジェームズだってそう思ってるんじゃないのっ」
シリウスの言葉にかぶせるように悲鳴をあげたリリーの声はすでに涙に湿り震えていた。シリウスは身体ごと振り返り、厳しい声で言った。
「無茶苦茶言うな。ジェームズは狂ってる。あてになんねぇよ。あいつは自分で立ち直るしかないんだ。お前までおかしなこと言うな」
「だって、そんな」
「だっても、くそもあるか。リーマスが言ったみたいに無理やり連れ去られたほうが百万倍もマシだ! それだったらジェームズが悪魔みたいに奪い返しに行くだけだからなっ。ヤツは自分からあっち側に行ったんだ」
「もしかしたら本当に連れ去られたのかもしれないじゃないっ!」
言い返したリリーにも苦しい言い分だとわかっていた。ラビリンスに出入りしていたのがほぼ間違いなくスネイプだと確定した時点で疑いようはない。
ラビリンスは入ったら出られないバーだった。闇の仲間だと認められていない限り、または仲間になると目をかけられていない限り、十中八九無事に出られることはない。だからラビリンスは夜の闇横丁にある。普通の人は近づきもせず、見かけられただけでも怪しいと思われて仕方ない場所だった。
目撃談が出たとき、騎士団のほとんどがスネイプを捕らえることを考え、話にも上った。しかし、それが噂話の域を出なかったのはひとえにジェームズの存在だった。『ジェームズがそばにいるならば』という信頼だった。シリウスでさえ不満を抱きつつも表立った行動は起こさなかった。
「フランクか・・・、上にいるならプルウェットたちに相談しよう。うまくすればヤツをおとりにできるかもしれない」
「やめて、もう聞きたくない」
両手で顔を覆ってしまったリリーに目をやってから、シリウスはリーマスに顔を向けた。
「ジェームズには言うなよ」
「・・・・・・ジェームズがかわいそうだ」
「とにかくなんでも使えるものは使う。ヴォルデモートがフェアにやってくるわけないだろ。ぐずぐずしていたら、俺もお前もジェームズも死んじまうんだ。かわいそうなんて言ってる場合か」
室内にはリリーの静かにすすり泣く声が途絶えることなく流れ、リーマスがやるせなく目を伏せた視線の先でシリウスの指がいらだたしげにテーブルを叩いていた。
スネイプが目を覚ましたとき、部屋は薄暗くシンと静まり返っていた。見慣れない場所にここはどこなのだろうと混乱したが、カーテン越しの窓から見える黒い海に「あぁ」と納得した。それと同時に胸に去来したものはなんだったのか。慌てて起き上がり、慄きながらパジャマの右袖をそっとめくると闇より濃い印章が醜く現れていた。
「良かった、生きてる」
思わず呟いた言葉の切実さはスネイプが今まで生きてきた中で一番だったかもしれない。
遠くで聞こえる寄せては返す波の音に高ぶった気持ちが徐々に落ち着いていく。いつの間にか海は穏やかさを取り戻したようだ。
印章と引き換えにすべてを失った。でも一番欲しかった『出来る限りの恋人の安全』を手に入れるための第一段階はクリアした。
「もう恋人じゃないか」
こんな印章を持ってしまったスネイプを誰が恋人と言えるだろう。あれほど優しく愛してくれたジェームズに恩を仇で返すような真似をしてしまった。何かを口にしてしまったら何もできなくなると言い訳して、黙って姿を消したことは最低だとわかっている。
「ジェームズ、ごめん。ごめんね、ごめんなさい」
何度謝っても謝り足りない。顔を見て謝ることもできなくなった身としては永遠に許されることもないのだった。深く傷つけたことを詫びながら、身勝手に自分も傷ついていた。
数か月も前から失くすとわかっている人を失くした。ゆっくりと時間をかけて彼を諦めたはずだった。昔と同じように心を凍らした・・・・・・はずだった。しかし、耳の奥によみがえるジェームズの声は今でさえ甘く身体を溶かす。
大きすぎる喪失感にスネイプは喉の奥にうずまくうめき声を押さえることができなかった。両腕で身体を抱きしめ口をしっかり閉じても声は漏れる。うーうーと唸りながら前のめりに身悶えていると、すぐ脇にあるテーブルのランプに灯りがともった。
ハッと顔を上げると戸口にガウン姿のルシウスがランプを持って立っていた。
「何か羽織らないと」
ルシウスは言った。
「今夜は意外と冷える」
ランプを床に置き、そばのクローゼットを開いてショールを取り出した。ルシウスはそれをスネイプの肩にかけると乱れていた後髪をそっと撫で付けた。気遣いに溢れる繊細な指先にスネイプはルシウスの顔を見たがいつも通りの能面のように冷たい表情だった。
ショールの端を胸元に引き寄せながら、スネイプはパジャマが変わっていることに気づいた。ツルリとした感触の薄紫のパジャマはおそらくシルクで肌に優しかった。
「腕を見ても?」
落ち着いた声で聞かれ、スネイプは目を閉じて浅く頷いた。
ルシウスはランプをテーブルに置き、ベッドに腰掛けるとスネイプの腕を取った。袖をめくりあげた場所にある印章が予想通りだったことにルシウスは胸の内だけでため息をついた。ひどいみみず腫れがかさぶたになったかのように皮膚が盛り上がった醜い印章だった。これは時とともに見苦しくないものに変わるのだろうか。
ルシウスの腕にある印章は黒インクを型に流し込んだようにはっきりとした、言ってみればタトゥと変わりないものだった。
「痛みは」
「ありません」
「体調は」
「いいです」
ランプのほのかな灯りの中でさえ青白いとわかる顔色でそんなことを言われても信憑性はない。さっきまで震えていたくせに。
「アイスクリームは」
無表情で答えていたスネイプが驚いたようにルシウスを見て、それからかすかに笑った。
まぁいい、笑えるくらいなら。たとえそれが弱々しく透明で消えそうだったとしても、まだ心に光は残っている。前を向いていられるだろう。
「一緒に食べましょう、先輩」