冬の旅
濡らしたタオルをそっと頬に当てられ、ジェームズは無意識のうちに苦笑った。シリウスが謝るなんて似合わないことをしている。それにどう考えても悪かったのは自分だ。
「リーマス、ごめん」
ジェームズの肩を優しく叩いて「わかってる」と頷き、リーマスは気遣わしげにジェームズの顔を覗き込んだ。その視線が何があったのかと説明を求めていたがそれに気づかないふりをする。話す気はない。
ジェームズは頬に当てられたタオルをはずさせシリウスに「帰ろうか」と言った。
「スネイプを待ってなくていいのか」
「・・・・・・いいんだ」
「何かあったんだろ、ヤツと。どうせくだらないことで言い合いにでもなったんだろうが世間じゃそれを痴話ゲンカって言うって知ってるか」
シリウスはジェームズの腕を引っ張り上げて立たせた。聞くことを諦めたのか無駄だと思ったのか、何も言わないシリウスにジェームズはホッとしていた。リーマスはともかく、シリウスに本気で問い詰められたら口を割らない自信はなく、嘘も通じないと知っていた。
ジェームズはざっと戸締りを確認すると部屋を後にした。
エレベータで1階に下り、エントランスを出たところで管理人に出くわした。この前とはうってかわり、太った身体を左右に振りながら近づいてくると朗らかにジェームズに話しかける。
「ポッターさん、先日はどうも。ちょうど良かった、今頃で申し訳ないんですが領収証を持ってきたんですよ。お訪ねしようと思っていたところでした」
ごそごそと手持ちのかばんを探り、茶封筒を差し出す。
「まったく毎日暑いですなぁ。この身体には厳しいですわ、おたくは関係なさそうでよろしいですな。スネイプさんも随分細い方ですし。そういや最近お見かけしませんがお元気ですかな」
そう言って管理人は首にかけていたタオルで額の汗をぬぐった。
「ああ、うるさいことを言うつもりはありません。ご自由にしてくださって結構です。こう見えても感謝しているんですよ。このご時勢ですからな、退去はあっても入居や更新は慎重な方が多くて。そんななか半年分の家賃をポンとお支払いいただけるなんて感激です。それもお友達のためにでしょう、普通なかなかできることじゃありませんな」
上機嫌の管理人はペラペラと喋り、「今後もよろしくお願いしますよ」と丸っこい手を上げて去っていった。
「ジェームズ、家賃てどういうことだ」
シリウスの声が低い。とりあえずのところは下手なりにもごまかしたはずだったのに、管理人に会ってしまったことで、また波乱が起きる。
「久しぶりにアイスチョコレートでも飲みに行こうか」
雲行きが怪しくなったことに気づかぬふりで、ジェームズはリア・オセロに行こうと誘った。
「ジェームズ」
リーマスの声が不安に揺れている。
「部屋に戻るぞ。リーマス、そのバカを連れて来い」
シリウスはさっときびすを返すとエレベータのボタンをダンダンッと乱暴に押した。それを見てリーマスは遠慮がちにジェームズの腕を取り、ジェームズは諦め顔で「困ったね」と薄く笑った。
「生きていたか」
笑いを含んだ声に顔をあげると底光りするカーキのシャツにワインレッドのタイを締めたヴォルデモートがいつの間にか黒光りするインテリアに変わった椅子に腰掛けていた。一流モデルも裸足で逃げ出すような美貌にスネイプはしばし見とれる。
ルシウスに頼まれた手紙の宛名書きに夢中になった覚えはないが、男がいつ現れたのかまったくわからなかった。羽ペンをペン挿しに挿し、人差し指についたインクをこすりつつ静かに呼吸を整える。突然の訪問に心臓が早鐘のように脈打っていた。
スネイプはルシウスにしつこいほどヴォルデモートの性向について言い含められていた。どのようなことであれ、首を振ることは許されない。まずは頷けと教えられた。
「紅茶を入れてくれないか」
文言は頼みごとだが、口にした人間が人間なだけに限りなく命令に聞こえる。それでも機嫌が良いことだけはなんとなく感じて少しほっとした。
レディ・ブルーの缶を取り出し、ティーポットに茶葉を移す。ふと気になって尋ねた。
「ホットでよろしいんですか」
ヴォルデモートの姿を見ていると涼しげで忘れてしまいそうになるが8月の半ばだ。山奥とはいえ、暑いことに変わりはない。
「熱いのがいい。冷たいものは好きではない」
「わかりました」
スネイプは飲み物は温かいものとインプットして、ポットのお湯を注いだ。あたりにふわりと茶葉の蒸れる匂いが広がる。意外にもレディ・ブルーは癖のないすっきりとした香りがする。生粋の紅茶であり、グレースのようなフレーバーティではない。
「ミルクを入れてくれ。お前のコーヒーのように」と笑い声がした。この人でも普通に笑うのかと思って不思議だった。
「今日は気分がいい。先週可愛いペットを手に入れてな」
「ペット、ですか」
「3フィートほどの蛇だ。そいつに夢中になってここに来るのが遅れた」
確かに海の家には1度来たらしいが、あれから1週間、この家に来たのは初めてだ。印章が現れてから会う機会はなく、気にはしていたがもしかしたらこのまま数週間は現れないのかと思っていた。ルシウスも特に何か口にすることもなく、日々は穏やかに過ぎていた。
ルシウスは忙しいと言っていた通り、スネイプが朝目覚めたらいつの間にかいるという具合で、越してきてから3日目ついに帰ってこなかった。
小さな部屋にベッドはひとつしかなかったが、「ベッドはいらない」とルシウスが言った理由がよくわかった。部屋の隅に寝袋が一つおいてあったがそれも使っているのかいないのか。
一昨日は見かけたが昨日は帰ってこなかった。今朝テーブルの上にリア・オセロのブラウニーが置いてあって、メモも何もなかったがスネイプのために買い求めたことは明白だった。ルシウスはわざわざ自分のために菓子を買いはしない。
「どうぞ」
そのブラウニーを添えてミルクたっぷりの紅茶を差し出した。うまく入れられているといいのだけど。せっかく機嫌が良いのを悪くしたくはない。
スネイプはルシウスの話しぶりからヴォルデモートはかなりの短気だと解釈していた。
「ところでお前にひとつ頼みたいことがある」
カップを優雅に口に運びながらヴォルデモートは言った。宝石のように光るエメラルドの瞳がスネイプを捉えていた。
「調薬ができるんだったな?」
「はい」
「良く効く頭痛薬が欲しい」
「はい」
話はそれだけだとばかりに口を閉ざしたヴォルデモートにスネイプは慌てて質問を投げかけた。
「あの、どのような症状でしょうか。大人用ですか、子供用ですか」
「わたし用だ」
わずかに顔をしかめ、いらだたしげに口にしたヴォルデモートに気付かれぬよう慎重に驚きを封じ込め表情を取り繕う。この人が頭痛・・・・・・?
「長引くことはないが時々痛む。目の奥なのか耳の奥なのかずきずきと。月に1度あるかないかくらいだがコンスタントに頭痛がする」
忌々しい、とヴォルデモートは吐き捨て、イライラと髪をかき上げた。金の粉が舞い上がりそうな美しさだった。