冬の旅
もともとジェームズは命より大切だと言い切れたが、離れてみていっそうその思いは強くなった。何があっても守りたい。彼の命が助かるのならば、八つ裂きにされようが地獄に落ちようがかまわない。ちっぽけな命ひとつ、いつでも差し出せる。この思いだけでスネイプは生きていると言っても過言ではなかった。
思えば人間を憎悪していた。狭い空間に閉じ込められるならば腹をすかせた熊のほうが何倍もマシだった。本能が人間を嫌っていた。それを変えてくれたのはジェームズだ。
他人から見たらイライラするだろうこの性格も、行動も、仕草もすべてを許してくれた。なんて心の広い人なんだろうと尊敬もしたが、それ以上に信じることを忘れた心がジェームズさえ疑った。
時々、無性に意地が悪くなったのは、ジェームズの優しさを試していたからだと今になってわかる。ガラスの表面を爪でひっかくような、ささいだけれども虫唾が走るような、汚れた気持ちが湧き上がったとき、八つ当たりの対象はいつもジェームズだった。「この人なら許してくれる」という無意識の甘えに気づいたとき、人生で初めての、そして最後の愛を知ったのだ。まさにそれは奇跡と言うしかなく、それを手放したとき自分は死んだのだとスネイプは思った。
「うぅぅ」
あの人が呻いていた。半分身体を起こした姿で手を頭にやり、顔をしかめている。スネイプは急いでベッドに走り寄った。あのとき手を差し伸べた時点で完全にこの人とは運命共同体になったのだと、また一歩、闇に染められたことを認識していた。もう戻れない。
「大丈夫ですか、僕の声が聞こえますか」
「うぅ」
唸りながらヴォルデモートは目を開けた。あたりを少しさ迷った後、エメラルドの瞳がスネイプを捉える。その澄み切った瞳に動揺したのは、一週間前にルシウスを半殺しにし、スネイプを殴り倒した人が持つには異常な美しさだと咄嗟に本能が判断したからに違いなかった。
ベッドに身を乗り出すようにして顔を覗き込んでいたスネイプは、ヴォルデモートが身を起こそうとしていることに気づき、ぎこちないながらそれを手伝った。
「マスター、お加減は」
背中にクッションを当て、肩にショールを掛けて、恐る恐る乱れた髪を撫で付けるとスネイプは問うた。
「頭痛の、後にしては、珍しく気分がいいな」
少し話しづらそうな、その声音にスネイプはぎょっとして息を止め、まじまじとヴォルデモートの顔を見つめた。ヴォルデモートは首を傾げ、次に苦笑して「どうした?」と言った。
「マスター・・・・・・」
「ん? ああ、今度は君が私をそう呼ぶんだね? 失礼だけれど君はサーヴァントということでいいのかな? それともドクター?」
そう言って、ヴォルデモートはまるで王侯貴族のような上品さで微笑んだ。呆然としたままスネイプが言葉を失っていると、判断に困ったのか、とりあえずのところは年下の人間に対する気軽さで話すことにしたらしかった。
「とてもずうずうしいのは承知だけれど、何か食べるものをくれないかい。私はどれほど眠っていたんだろう、腹ペコなんだ。いい大人が情けないけど、今なら子供のお菓子を取り上げて泣かせても後悔しないと思うよ」
バチンと音がしそうな勢いでウィンクするヴォルデモートは、姿はそのまま、中身と雰囲気を取り替えた別人だった。いったい、これは、誰・・・・・・?
息をすることさえ忘れて目を瞠るばかりのスネイプは激しく混乱した。
デスイーターたちを操り、味方さえ傷つけて、血を見ないと興奮が治まらない人だった。少しでも気に入らないことがあると彼の満足のためだけに魔法使いたちは次々と殺された。自分の手も汚すが、他人が手を汚す様を見るのも好きな人だった。
それなのにどうしてそんな優しく笑えるんだろう。ダイヤモンドより硬い冷たさは気配さえなく、春の木漏れ日に揺れるシロツメグサのように温かい優しさは何? なにより。
「覚えていらっしゃらないのですか?」
「んん、すまないね。時々、記憶が飛ぶんだ。子供の頃ドクターに診てもらったけど原因不明で打つ手なしだった。まぁ慣れればどうってことないものだよ。でも、君みたいな若くて綺麗な黒髪の子をスカウトするなんて、私もなかなかやるね。君が私のサーヴァントなら嬉しいって意味だけど」
輝くばかりの容姿に加え、硬い表情のスネイプを気に掛けての大人のウィットに富んだ軽快な口調は誰もが惹きつけられずにはいられない魅力に溢れ、女子供だけではなく男さえハッとするものだったが、スネイプは衝撃のあまり思わず後ずさった。
『時々、記憶が飛ぶ』?
記憶が飛ぶ、記憶が飛ぶ、記憶が飛ぶ、時々記憶が・・・・・・。
それじゃぁ、誰もが恐れる『名前を言ってはいけないあの人』の記憶がこの人にはないということ? この人はヴォルデモートを知らない? だとしたら、今、目の前に存在するこの人はいったい誰なんだろう。
「どうした?」
見つめてくるエメラルドの瞳からわずかに視線を逸らせて、スネイプはなおも思いをめぐらす。
つまり、この人の身体には少なくとも二つの人格があって、片方が表に出ているとき、もう片方は眠っているのか意識がないのかわからないけどとにかく何をやっているのか知らないと、そういうこと? そんな、そんな馬鹿なこと・・・・・・。
思いもかけない事態に耳の奥をドラムのように叩く心臓の音が身体中に響いてぐらぐらした。こうなるといつもならすぐに思考回路は停止する状況だったが、さすがに今は突拍子もない出来事に爆発しそうな頭でもフル回転していた。
この人の名前が最初に囁かれ出したのはいつだった? ホグワーツに入ったときにはすでに名前は知れていた。それでもまだゴーストのような存在で、実体を持ったのは去年・・・・・・、違う、一昨年の卒業前だ。だからジェームズが騎士団に入った。そのときには騎士団は機能していたから。とすれば、随分と前からダンブルドアやマクゴナガルたちはこの人が対策を必要とするほど危険だと思っていて、全部ではなくても、ある程度動向を把握していたんだ。でもこの人が二つの人格を持っていると知っていた可能性は低いんじゃないだろうか。
『時々、記憶が飛ぶ』程度だったら四六時中行動を共にしないと違う人格に出会う確率は低いはず。もともと独りでいることがスタンダードだったとしても、一番近くにいたはずのルシウスでさえ、そんなことは一言も言わなかったし、こちら側のどこからも聞こえてこなかった。
もしかしたら、誰も知らない? 導き出された考えにスネイプは身震いした。
「君、君」
軽く腕を叩かれて、スネイプはハッと意識を戻した。
「君の黒曜石のような目に見つめられるのは光栄だけど、ごめん、私の腹の虫が盛大に合唱し始めたようなんだ。なにか甘い匂いもするし、頼むから食べ物をくれないかい」
「えっ、あ、すみません。スープがありますからすぐにお持ちします。1週間も何も召し上がっていないので、あまり固形のものは口に入れないほうがいいと思います」
スネイプは急いでキッチンに入り、鍋からぬるいスープを皿に移した。溶けたような玉ねぎとさわると崩れるようなジャガイモを少し入れた。