冬の旅
ジェームズが玄関で「ロングボトムにもらった」とぶどうをかかげて見せたとき、スネイプは「あぁ、これで最後なんだな」と思った。ジェームズと食事をするのも、ジェームズと話をするのも、ジェームズの姿を目にするのも。
思い出アルバムにひとつだけ欠けていたぶどうをジェームズが持ってきたのが偶然とは思えなかった。
「ねぇ、セブルス。今日は何かの記念日だったっけ?」
ブラウニーとミンスパイを横目で見ながらレモネードを口にしていたジェームズが首を傾げて言った。
「そういうわけじゃないけど、なんか作り出したらこんなふうになっちゃったんだよ」
なるべく自然に聞こえるよう困惑したように言った。あくまで偶然なのだと思うように。
しかし、実際、作り出したらこんなふうになったというのは間違いではなかった。ミンスパイを作ったらブラウニーも欲しくなり、ブラウニーを買ったらレモネードも欲しくなった。
しかし、赤いチェックのランチョンマットは意識した。テーブルクロスはなかったがランチョンマットならあったことを思い出して戸棚の奥から引っ張り出してきたのだった。
ふくろう部屋で会ってから、日々はあっという間に過ぎた。
ささいな喧嘩はしたが大きな喧嘩はしなかった。ジェームズはスネイプに関する限り何事にも鷹揚だったし、スネイプはジェームズがどんなことをしても許せた。はたから見れば共通点のない二人は凸凹がくっついて正方形になるように相性がぴったりだった。
「なんだか懐かしいな」
ジェームズが言うのも無理はない雰囲気だった。作ったスネイプさえ、用意した食事を見てジェームズの最初の言葉を思い出したくらいだったのだから。15歳の終わりに「まずはここからさ」とジェームズが宣言した、あの言葉こそスネイプにとっての人生の夜明けだった。明日からは一人なのだと思うと寂しさで世界が陰る。
「どこか行きたいな」
スネイプが言うとジェームズは大げさに眉を上げた。
「珍しい。セブルスがそんなことを言うなんて」
「たまにはね」
「そうだなぁ。ゴドリックの谷なんてどう?」
オレンジ風味のクリームチーズをのせたクラッカーを口に放り込みながらジェームズが言った。
「何かあったっけ、あそこ」
「今の時期は滝だな。涼しいし、水が20メートルほどの高さから流れ落ちてるんだ。ダイナミックにね。見たことある?」
「ない。滝があることも知らなかったよ」
「知る人ぞ知るって場所だと思うな。僕も教えてもらうまで知らなかったし。滝つぼで泳ぐこともできるんだ。綺麗なところだよ」
「へぇ。行きたいな」
「じゃ、明日行こう」
ジェームズに食事を促しながら、スネイプは「そうだね」と言った。
食事後のデザートにしては豪華なミンスパイを切り分け、ぶどうやオレンジを添えてテーブルに並べた。年中ホットコーヒーしか飲まないジェームズのために熱いコーヒーを入れた。
「ミルクはどうした?」
ブラックコーヒーを手にしたスネイプに目を丸くして、ジェームズが言った。
「僕だってこれくらい飲めるんだから」
「無理すると寝られなくなっちゃうぞ」
冗談めかしてジェームズが言ったが、たぶん今夜は眠れない。このコーヒーの香りも苦さも忘れない。眠るのが惜しかった。
泊まるとごねるジェームズを「外で待ち合わせたほうがデートっぽくていいでしょ?」と言って納得させた。ジェームズは「じゃぁ、泊まっても大丈夫なくらいに持っていくものを用意して」とよくわからないことをスネイプに約束させた。どこかの宿でも予約するつもりなんだろうか。
騎士団の活動が随分と活発になってきているこの時期に他と足並みを揃えないのはジェームズにしては珍しいことだと思った。本当はスネイプの部屋に遊びに来ている場合でもないということは雰囲気でわかっていた。『リゾートごっこ』の最中にジェームズ宛のフクロウ便が絶え間なくやってきているのも、夜中にベッドを抜け出し訪ねてきた誰かと通りで話しているのも知っていた。ジェームズはすべてを隠していたが、スネイプが知らないふりをしていただけだ。
「10時くらいに迎えにくるよ。騎士団の本部に寄らなきゃいけないから遅れるかもしれない」
「何時になってもいいけど。待ち合わせじゃないの?」
ジェームズはスネイプの額をピンッと指で弾いて笑った。
「僕がこの部屋のチャイムを鳴らすのがどれだけ気に入っているか知っているのにそんなことを言うのかい? 恋人にドアを開けてもらうほど嬉しいことはないっていうのに」
スネイプは肩をすくめて了解の意を示した。
いつものようにドアはすぐに閉めたが、そのままジェームズの足音にじっと耳を澄ませた。聞こえなくなると小走りに部屋を横切り、窓から外を眺めた。北極星が一際輝く夜だった。
アパートのポーチから出てきたジェームズは街灯の下を踊るように歩いていく。時々くるりとターンしてはステップを踏んでいた。
「ジェームズ」
窓に当たって跳ね返るスネイプの声は切なさにあふれていた。4年たっても君に恋をしている。どこ、と言えない。なに、と答えられない。すべてに心を奪われて。
ジェームズの姿が見えなくなるとデザートの皿とコーヒーカップをキッチンに運んだ。
スネイプは袖を捲りあげたが、まだそこにあの人の印はなかった。スネイプは用心のため、あの人が現れた日から長袖を着るようにしていた。もともと肌の弱いスネイプは長袖のシャツを羽織っていることが多く、ジェーズも不信には思わなかったのだろう、何も言わなかった。
明日で2週間だが、いつ印は現れるのだろう。いつ迎えが来るんだろう。
9時までには来てもらわないと困る。ジェームズがやってきてからでは遅い。
だがスネイプは心配していなかった。
あの人のことだ、そこのところは抜かりがないに違いない。どうせ誰かが、どこからか、監視しているのだろうから。
スネイプはテーブルの上にカレンダーの裏に書いた手紙を置き、ベッドルームに向かった。そこにはちゃっかりエルザがもぐりこんでいて、スネイプが隣に滑り込むと小さな声で鳴いた。その暖かい体を抱きしめてスネイプは目を閉じた。歯を磨いた後にもジェームズと同じブラックコーヒーを飲んだ口の中が苦かった。
エルザを胸に抱きながら、ジェームズの名を呼んだ。何度呼んでも呼び足りない。『なに?』と尋ねる優しい蒼い瞳を見られなくなると思えば胸をかきむしらずにはいられないほど哀しかった。
記憶の中の日々を何度も反芻した。そのどれもが幸せであればあるほど哀しみは増す。ジェームズとの思い出の中にひどくされたことを探そうと躍起になっても考えすぎて頭が痛くなるだけだった。
あぁ、僕はいつでも思い出すんだ、両手で頬を包まれてキスした日々の幸せを。
いつしかうとうとしていたらしい。はっと目を覚ますとカーテンの外がうっすらと明るくなっている。スネイプはそっと身を起こしたが、エルザはすぐに目を覚まして小さく鳴いた。
「おはよう、エルザ。まだ寝ていていいよ」
枕元の時計はまだ5時過ぎだった。夏の夜明けは早い。
ぼそぼそと人の話し声がする。いったいどこから、と思った瞬間、ベッドを飛び出していた。