無傷の11月26日
練習終了を告げる笛が響くと冷たい風がひと吹き。
汗だくの肌がいっきに冷えて寒くなった。
上級生から順に更衣室に入って瑛がロッカーを開ける頃には外は薄暗くなっていた。
着替のシャツよりタオルより先に携帯を取り出したが待ち受け画面には何の通知もない。
二日。駆と喧嘩別れしてから二日になる。
携帯のメモリには律儀に「逢沢駆」とフルネームで登録してあった。
プロフィール情報を丸ごと受け取ったので、メールアドレスも電話番号もある。
その画面から少しキーを押せば電話発信もメールの作成もできた。
でも、どちらもせずに携帯をバッグの底に投げ込んだ。
国松は駆のことを気に入っているようだった。
素直で生意気なところがないから、年上には好かれるだろう。
傑が弟を可愛がるのもわからないでもない。過保護だとは思うが。
「紅白戦でいきなりマネージャーやってる弟を引っ張り出したんですから、贔屓だって思ってる連中もいたみたいですけどね、そうやって僻んでる奴なんかよりよっぽどアイツは強いですよ。」
話の先を促すと、自然と国松と一緒に帰る流れになった。
傑から聞く駆の話は弟可愛さに目がくらんでいるブラコンの言う事と決めつけていた。
何しろマネージャーをやっているというし、過去にもこれといって目立った成績がない。
傑の目と正直さは信頼していても、弟のこととなると。他では見せないようなにやけた目をする男の発言を全て信用する気はなかった。
しかし、国松と自分の目で見た駆を思い出すと、傑の期待もいくらか理解できた。
「そいつは、何でマネージャーなんかやってんだ」
「鷹匠さん、駆と知り合いなんすか?」
詮索する顔の国松に急に面倒になった。
「やっぱいい。言いづれーことなら訊かねえよ。」
「ちょっと気になって訊いただけじゃないっすか!
……別に、うちの部内じゃ結構知られてる話だし本人も隠してないんでいいっすよ。
アイツ、昔練習中に友達に怪我させちまったらしいんですよ。小学校の時に。」
「大怪我だったのか」
「靭帯やっちまったらしくて。それでも一年の頃は頑張って練習してたんすけど、結局…」
「トラウマで“左”が使えないまま、か。」
尻切れになった言葉を引き継ぐとすかさず
「やっぱり駆のこと知ってんじゃないっすか」
「うるせえな、そんなには知らねえよ。」
実際、左足のことを本人に尋ねたこともあるが答えは聞けなかった。
知ったとしても同情はしなかっただろう。
その程度の奴なのだと思って、それきりだったかもしれない。
「傑も、俺も戻ってくるの待ってるんすけど、傑の奴はあのとおりスパルタっすからね」
最初にあった夜に駆が言った言葉が思い出される。
『もう、サッカーやめるんです。』
目にいっぱい涙を溜めて、少し怒ったように言った。
あんなのは本当に辞めたいと思っている顔じゃない。
下校する運動部が疲れた流れを作る校舎脇を回って正門に向かうと、門の内側に見るからに柄の悪い集団がいた。
それなりに名門の鎌倉学館には珍しい。
こういう連中が遅い時間まで学校に残っていることも珍しいので、運動部の瑛とは余計に縁がなかった。
何をしているのか、見やると、人壁の間から中等部の制服が見える。
「ほんとに人を待ってるだけなんです!」
どうやら集団はカツアゲだとか暴力をふるおうとしているわけでもなく、高等部に紛れ込んでいた中等部生をからかっているだけのようだが、相手はそれがわからず必死の様子だ。
「もう人なんかそんなに残ってねえよぉ?」
「学校に忍びこんで日頃のウップン晴らしにいたずらしようとしてたんじゃねえの?」
「ちちちがいます!」
「あっやしー」
「部活で遅くなってたらまだ残ってるかもしれなくって…あの…」
集団の横を通り抜けようとした時、門塀に追い詰められた中等部生が見えた。
「……お前、何やってんだ」
飽きもせず埒の明かない、その気もない問答を繰り返していた不良集団と中等部生、駆が一斉に振り返った。
そして、駆は救世主とばかりに顔を輝かせた。
「鷹匠さん!」
「ご迷惑をおかけしました…」
声をかけると駆はあっさりと開放された。
そのため瑛は何もしていないが、駆は丁寧に頭を下げた。
「謝りたくって、鷹匠さんを待ってたら兄ちゃんが通りかかって、思わず門の内側に隠れたら…」
捕まったらしい。
高等部の敷地に中等部生がいたら確かに怪しいし目立つ。
「昨日も来たんですけど、タイミングが悪かったみたいで…」
「昨日は用があったんで中等部の門から帰った」
国松と一緒に下校したのでそうなった。
「あ、そうなんですか。」
「何時まで待ってたんだよ」
「えっと、門が閉められるまで」
サッカー部はやや早く解散になったが、瑛が下校する頃にもまだ練習を続けている部活もあった。
門が閉まる時間というと、間違いなく真っ暗だっただろう。
「バカか!携帯のアドレス教えてあんだろ!」
怒鳴りつけると漸くその存在に気づいた様子で目と口を丸くした。
「あ!すすすすいません!」
この二日間携帯を気にしていたのがバカバカしくなる。
ペコペコした勢いのまま、改めて嘘をついた件の謝罪と弁解をごちゃまぜに語られたが、その内容は最早どうでもよかった。
「条件がある」
言葉を遮って目の前に指を立てるとキョトンとして首をかしげた。
「へ。何の、ですか?」
「ここまで何しに来たんだよ」
「えっと、謝りに…」
「許してやるっつってんだ」
「!」
パッと晴れた表情は次の一言でいっきに曇る。
「お前、マネージャーやめろ」
「……はい。」
聞き分けよく頷きながら、小さな声で「どうせそのつもりでした」なんてぼやくので思わず手を上げそうになったがデコピンで勘弁してやる。
「そうじゃねえ。マネージャーやめて、選手に戻れ。」
弾かれた額を押さえる両手の下で、顔立ちを幼く見せる大きな目がこれでもかというほど見開かれた。そして戸惑うような顔。
それでも、さっきの「はい」よりずっと晴れて見えた。