無傷の11月26日
横浜に自宅のある瑛は電車通学である。
学校から見ると、最寄り駅と逢沢家は方向が違った。そのため、傑と下校しても一緒に歩く距離などあまりない。
それでも瑛が傑を誘うのは、傑が瑛の進学理由だったからだ。二年前に傑が一年生ながらに10番を背負うチームと試合をしていなかったら、電車で三十分もかかる鎌倉を選ばなかったかもしれない。
傑のまだいない高等部サッカー部は瑛の期待するレベルには達していなかった。
日本代表合宿で傑のパスを受けるたび、毎日同じチームでやれるのが待ち遠しくなる。学校の部活に戻ると傑がいないことを悔しく思う。
特に、瑛はまだ一年だ。上級生のプレイに文句をつけて睨まれることも少なくはない。中学時代、傑にエースナンバーを明け渡していた先輩たちではあるが、後輩に寛容なわけではなかった。傑ただ一人が別格なのだ。
下校中も、そんな高等部チームへの不満を漏らすことが多い。そもそも、チーム内で何かあった日は必ずといっていいほど中等部に顔を出す。
年下相手に愚痴など情けない限りだが、選手としての実力を除いても、傑には年下と思わせない空気があった。
瑛は駅を目指していた。
出発点は傑の家。一度学校まで引き返すのが確実だが、それは結構な遠回りだった。
駅の方向はなんとなくわかる。傑の家を探して迷ったことなど忘れたかのような決断力で歩いた。
もうじき七時半になる。携帯で時間を確認し、足を急かそうとしたとき、ボールの弾む音を聞いた。
顔を上げると、暗い公園に人影があった。
誰か、少年がボールを蹴っている。
街灯の灯りはあるが、グラウンドの照明と違って頼りない光だ。ベンチや遊具の影は黒々としている。
そんな中で一人練習だろうか。
中学のサッカー部員に見えた。どちらかというと器用だが、その技術に目を留めたわけではない。
ベンチにパスをし、見えないディフェンダーをかわし、ブランコに向かって強く蹴る。
ブランコはチェーンを軋ませて大きく揺れ、座板の側面でボールを跳ね返した。
少年が走る。夜の空に跳ね上がったボールを確かめもせず、ブランコに背を向け、道路に出る公園の入口へと向かう。
そこには瑛がいた。入り口付近に人が立っていることは、振り向いてすぐにわかったはずだ。
しかし、少年が足を止めたのはお互いの人相が確認出来る距離まで迫ってからだった。
瑛の顔を見つめて足を止めた少年と、やはり少年を見つめた瑛との間にボールが落ちる。
(…間に合ったな)
足を止めなければ丁度少年の足元に落ちたかもしれない。
そうなるように狙って蹴ったとは思えなかった。そこまで器用ではない。
「今の、」
足元に転がってきたボールをトラップしながら瑛が口を開くと少年は叱られた子供のように肩を揺らした。
「ここにくるように蹴ったのか?」
「え、…えっと、そういうわけじゃ…。」
“嗅覚” そんな単語が頭を掠める。
例えばゴール前で弾けたボールの行き先を感じ取る“嗅覚”。
「すいません、そのボール、返してもらえますか」
黙り込んだ瑛に遠慮がちに言う。
しかし、瑛は荷物と上着を放り出し少年の脇をすり抜けて公園のど真ん中までボールを運んだ。
「取りに来い。」
街灯に照らされた少年の顔がゆっくりと戸惑いから闘志の色に変わる。
影の落ちる瑛の口角がにやりと釣り上がった。