無傷の11月26日
ベンチの目の前でボールを止めた瑛はそのまま腰を下ろした。
ボタンをいくつか開けたシャツの胸元を掴んで内側に風を送る。
「はぁ…はぁ…」
暗い公園のど真ん中では少年が膝に両手をついていた。荒い呼吸に合わせて肩が上下する。
とんだ見込み違いだった。
突如始まったボールの奪い合いは、いつの間にか公園端の塀をゴールにした競り合いになった。
言葉にしてルールを決めたりはしなかったが、自然とそうなった。
およそ三十分、瑛がゴールを決めてもすぐにどちらかが球を拾い、勝負を繰り返した。
そう、少年は一度も勝てなかった。
ボールを持てばそれなりの器用さは見せる。
特に遊具の配置をよく把握していて、苦しい時に鉄棒にパスを出しては跳ね返ったボールを拾い難を逃れる。
そういう場面が何度もあった。
うっかり高く跳ねさせてしまうと、身長と跳躍力で勝る瑛に奪われると分かって、途中試行錯誤をして工夫も見せた。
しかし、少年には決定的な弱点がある。
それではゴール前まで持ち込めてもゴールが決まらない。
「おい、」
呼び掛けに頭を上げた少年は情けない顔をしていた。
叱られると分かって呼びつけられた子供のような、怯えと反抗心を混ぜたような。
「お前、フォワードだろ。」
「…一応」
煮え切らない口ぶりに舌打ちする。
「どこ中だ。この辺に住んでるなら鎌倉か?」
「はあ…」
「一年か?」
「ニ年です。」
「サッカー部か?」
そこで返事が途切れる。
「…違います。」
瑛の眉尻が跳ねた。
「じゃあどっかのジュニアユースにでも入ってるのか?」
「いいえ」
「じゃあどこでサッカーやってんだよ。」
少年は少し迷った様子で人差し指を足元に向けた。
「えっと、…ここで。」
「ずっと夜一人でやってたってか?」
「そういうわけじゃ…けど、今はここでしか。でも…」
言葉を切って顔を上げた瞬間、ボールが足元めがけて鋭く跳んできた。
立ち上がった瑛がボールと同じほど鋭い目で睨みつけている。
「左足、何で使わねえ」
「え、」
「左足だよ。元から左が苦手なんじゃねえだろ。そういう感じじゃねえ。」
ずかずか距離を詰める。
一歩の距離までくると、少年が一歩後ずさった。
「使わねえのか、使えねえのか。」
「…っ!」
「こんなとこで一人で練習してるのと関係あんのか。」
八の字だった眉根に力がこもる。
「いいじゃないですか!鷹匠さんにそんなこと関係ない!」
細められていた瑛の目が一瞬見開かれた。
一拍遅れて少年が口を抑える。
その手首を目を丸くしたままの瑛が掴み上げた。
「俺のこと知ってるのか?」
そうだ。この公園に来てから瑛は名乗っていない。
小学生じゃあるまいし、制服にも名札はないしバッグにだって記名していなかった。
「あの、前に鷹匠さんの試合を見たことがあって…」
それが後ろめたいことのように少年は言った。
確かに、今年の大会にも鎌倉学館レギュラーとして出場した。
「やっぱりお前、元々サッカー部だったんだろ」
少年は目を逸らした。
そんな態度が気に入らない。
少年のパーカーの胸ぐらを掴み上げる。そのまま殴られるとでも思ったのだろう。少年は目をきつく閉じた。
その覚悟に反して、瑛は怒鳴ることさえしなかった。
「俺が興味あるのはお前の“嗅覚”と何でこんなとこでやってんのかってことだ。」
恐る恐る目を開けると、予想より近くに顔があった。
離れていても威圧感のある人だ。間近で見れば余計に圧倒される。
「でも、なんだよ。」
悪いことを言うんだろう、言ってみろ。そう言われいるようで。
しかし、唾を飲んで言った。
「もう、サッカーやめるんです。」
目の前の切れ長の目が丸くなる。
口を引き結んで視線を強く返すが、公園脇の車道を横切った車のヘッドライトが目元を非情に照らした。
大きな目に溜めた涙はじきに決壊する。