無傷の11月26日
父の帰宅に合わせて七時に夕飯のところを、母をせっついて一人分だけ先に用意してもらった。掻き込んで空の茶碗に手を合わせると、横でテレビを見ていた妹が呆れた顔をした。
「いってきまーす!」
駆は玄関の隅に置きっぱなしのボールを担いで声をかける。
「また公園?」
「うん、あ、兄ちゃんには言わないでね!」
「はいはい、分かってるわよ。」
二度目の「いってきます」を言って家を出た。
まだ日が落ちきらない。
途中で兄に会うかもしれないと思って通学路を避けて公園へ向かった。
オレンジより闇色に近い夕日の中でも公園の電灯が点っていて、周辺の家々から夕飯のいい匂いが流れてくる。
一人でボールを蹴っていると、帰宅途中らしい人がこちらを振り返ることがあって少し落ち着かない。
やっぱりいつもの時間にすれば良かっただろうか。
そう思い始めた時、公園内に踏み込んでくる影を見つけた。
一直線にベンチへ向かって荷物を下ろす。今日は上下ジャージ姿だった。
「鷹匠さん」
「何だ、今日ははえーな。」
「鷹匠さんも」
「部活が短かったんだよ」
舌打ちして続けた。
「うちは選手権も敗退したからな。」
「えっと、残念でしたね。」
「そんな顔すんじゃねえよ。来年は優勝するからいいんだよ。」
来年。兄が高校に入学する年だ。
きっと兄と瑛が組めばきっと優勝を果たすだろうと思う。県優勝どころか全国優勝もできるかもしれない。
二人が組んでゴールを決める姿が勝手に頭に浮かぶ。憧れと同時に奥歯をかみしめた。
瑛はそれを見逃さなかった。
「ま、お前には関係ねえ話だけどな。」
言っておきながら駆が顔を歪めるとイラついた様子で強くボールを蹴る。
キックオフだ。一対一のボールの奪い合いが始まる。
今日で三日目になる。
約束したわけではないが、偶然出会って険悪な別れ方をした翌日も瑛は公園に現れた。驚いたけれど嫌ではなかった。
二日目にも約束はしなかったが、駆がマネージャーとして在籍する中等部のサッカー部もまた早上がりだったので、瑛が来るのではないかと思って早めに来た。
予想というより期待だ。
瑛には厳しいことを散々言われたけれど、目の前で泣いた時に余計な緊張や萎縮も流れていった気がする。後に残ったのはぶつかり合う楽しさだった。
ボールを追いかけていると、ほんの少しだけ瑛が笑うのだ。
切れ長の目を細めて口の端を吊り上げる。男らしくて大人に見えた。
瑛の一瞬だけ見せる笑顔にドキッとした。自分とサッカーをして楽しいのだろうか。相手として不十分なのはやる前から分かっている。でも、瑛が笑うから。
サッカー部のキャプテンを務める兄が部活の終わり時間を伝えたとき、真っ先に「また公園に来てくれるかもしれない」と思った。
昨日の朝までは怖くて酷い人だと思ってばかりいたのに不思議だった。
ボールを止めてベンチの中央と端に腰掛ける。
前者は瑛、後者は駆だ。その間には瑛の荷物がまとめてあった。駆のスペースはやや狭いが別のベンチに座るというのもおかしい気がしたので遠慮がちに同じベンチに座った。
それぞれ水分補給を済ませたところで瑛が自然に名前を呼んで、駆は大袈裟に肩を揺らした。
「おい中塚」
「えっ?!」
何故かといえば、それが自分の名前ではなかったからだ。
でも、確かに昨日の夜はそう名乗った。本当の名前は逢沢というけれど、その名前を言いたくなくて咄嗟に友達の名前を言った。
そんなこともすっかり忘れていたので突然飛び出した名前に慌ててしまった。
ダラダラと口をつけていたドリンクが気管に入って咳き込む。
「……なにしてんだよ。」
「ゲホッ…すいません。なんですか…」
胸を抑えて「僕は中塚。僕は中塚。」と三回唱えた。
瑛はしばらく訝しげな目で見ていたが、駆が落ち着く頃合いを見計らって話を続ける。
「お前、ほんとにサッカー部じゃなかったんだな。」
「え?」
「中等部のキャプテンに中塚ってやつがいるか訊いた。そうしたら…」
傑もまた瑛の口から唐突に飛び出した中塚という名前が意外で首を傾げた。
『中塚ですか?髪をこんな風に立てて下心全開で女子を追っかけてはギャーギャー言われてる…』
頭の上のコック帽を両手で撫でるようなジェスチャーをした。
『髪も立ててねえし、そんなアホじゃねえな』
『うちの部に中塚は一人だけですけど』
控えめに詮索するような視線を片手で払って話を打ち切った。
「コソコソ調べるようなマネして悪いが、サッカー部じゃないって言葉を疑ってたんだ。」
「……」
「どこかのチームに入んねーのかよ。サッカー辞めるのは辞めたんだろ?」
「……」
「お前がやりたいのはこんな二人っきりでやるサッカーなのかよ。」
怒鳴るわけでもなく睨むわけでもなく、落ち着いて語られる言葉は静かに胸にのしかかってくる。親に正座で叱られてるみたいだ。
膝の上に作った拳をじっと見つめて俯いた。
すっかり夜になって公園脇の道にも人通りがなくなった。
隣で折りたたみ携帯を開く音がする。呆れられた。
焦って言葉を探しても怒らせそうなセリフしかみつからない。
「お前携帯持ってるか?」
「へ、携帯?」
死角から飛んできた軽いボールが側頭部を打ったような驚き。
思いもよらぬ質問を取り落としかけて、ついでに頭の上でまとまらないまま渦を巻いていた言い訳はポンッと消えた。
「あ、あります!」
ベンチの背もたれに掛けたパーカーのポケットから取り出したのは白い二つ折りの携帯だった。サッカーの年代別代表で合宿や遠征も多い兄が携帯を買う際に駄々をこねて一緒に買ってもらったものだ。
メモリーの0番は“自宅”、1番は“兄ちゃん”だ。
携帯をひったくった瑛は白い外装の上隅に幅一センチ程度の黒いパネルを発見して返した。
「アドレス送れよ。俺のも登録しとけ。ここに来ない日はメール入れろ。」
「え、じゃあ、僕が来る日は来てくれるんですか?」
「毎日来るわけじゃねえからな。気が向いてここに来ても誰もいないんじゃバカみたいだろうが。」
「はあ。」
「それとも何だ、俺とアドレス交換するのは嫌だってか?」
「そんな、滅相もない!」
大袈裟に首を振って慌てて赤外線通信メニューを開いた。
中学で携帯を持っている仲間はそう多くない。メモリーも十数件で、登録番号が一番新しいのは確か奈々だ。彼女が転校してきた学期始めに登録した。
あまり使わない機能にもたついたので、無事通信が完了したときはホッとした。
だから、瑛から送られてきたアドレスを登録完了して顔を上げるまですっかり忘れていた。
「…お前、」
携帯の画面を見つめる瑛の眉間に皺が寄る。ただアドレスを交換しただけのはずが、何が癇に障ったのか駆には分からない。
ただ肩を竦めて言葉の続きを待った。言葉よりも先に眼前に携帯画面を突出される。
それは送ったばかりの駆のアドレスだった。プロフィールを送信したのでメールアドレスも電話番号も、プロフィールに設定されている情報が一括で届いている。
「逢沢駆」
瑛がフルネームを読むのと駆が携帯画面の名前欄を目でなぞるのはほぼ同時だった。