無傷の11月26日
玄関扉の外に妹の歌声がこぼれている。
「近所迷惑だろ、この音痴」
ただいまの代わりに八つ当たりをすればすぐにそうと見破られて
「お兄ちゃん機嫌悪ーい!」
生意気な妹が唇を尖らせた。
それでも素直に楽譜を片付ける。
小学校の合唱サークルで発表会が近かった。今の歌も発表会用の曲なのだろう。
音痴というのは本心ではないが、飛び抜けて上手いというわけでもない。
それでも楽しげに続けている。兄の瑛の影響でサッカー観戦もするが、自分でやることには興味がない。中学に上がれば女子サッカー部がある学校はそう多くないので勧めようとも思わないが。
台所から飛んでくる母の「おかえり」にもいい加減な返事をして一直線に自室へこもった。
着信もメール受信の表示もない携帯画面を確認して、布団の上に放り投げた。
駆は追ってこなかった。
「逢沢駆」
本当の名前を呼んだ途端に表情が凍りつく。
「カケルって名前に聞き覚えがあると思ってたんだ。顔があんまり似てねえから、まさか傑の弟とは思わなかった。
でも、考えてみりゃ色んなことに納得がいく。
今はサッカー部のマネージャーやってるんだってな。チームに入ってないといえばそうだ。
兄貴と一緒にずっとサッカーやってきたんだから、それなりにやれるのも当然か。」
やや大きめの目がじんわり光を増す。
唇をかみしめている顔を観察したが、やっぱり傑には似ていないように見えた。
それも当たり前かもしれない。傑はハートの強さが違う。
傑は上手くいかないからといってサッカーを辞めるなんて言わない。
つまらない嘘なんかつかない。
「す…すいません」
やっと出た言葉は上ずった謝罪だった。
脇に置いていた荷物をまとめて肩に担いでベンチを立った。追って駆も立つ。
「すいません、あの、僕は…」
「言い訳か?」
一度だけ振り返り、駆が言葉を飲み込むのを見届けてから二度と振り返らず立ち止まることもなく大股で公園を出た。
駆はベンチ前に立ち尽くしたまま追ってこなかった。
公園前の道で通りすがりの女と目が合って僅かに怯えた顔をされた。
自覚はなかったが怖い顔をしていたのかもしれない。
舌打ちが出た。
「集中できてねーぞ瑛ー!」
散々だ。部活でつまらないミスを繰り返した。
以前から瑛を良く思っていない先輩からここぞとばかりに注意が飛んでくる。
いつも以上に長く感じる部活の後、自主練にも混じらず着替えもせずに中等部のグラウンドを覗いた。
中等部は一足早く部活が終了してとっくに無人だった。
大抵残って練習している部員が一人二人はいるものだが、今日はたまたまそれもいなかった。
部室まで足を運んで窓から様子を窺っても誰もいないので踵を返し、何をしに来たのだか分からなくなって汗っぽい頭を掻きむしった。
その背後から声がかかる。
「鷹匠さん」
驚いて振り返ると見覚えのない女子生徒が帰り支度をして立っている。
見覚えがない?いや。不安そうに曇った表情で思い出した。
昨晩会っている。公園の前で。
「あの、わたし、中等部のサッカー部マネージャーをやっている美島奈々といいます。」
「マネージャー…」
「駆と傑さんとは幼馴染で、鷹匠さんがあの公園に現れるまで駆の練習相手をしていました。」
「…つまり、お前もグルってことか。」
何がとは言わなかったが奈々もまた何のこととは訊かなかった。
彼女は事情を一通り知っているらしい。
「違います!駆は今まで一緒に練習してたのがわたしとは知りません、正体を隠していたから。昨日もわたしが公園の側にいたことを知りません。
勿論、傑さんも関係ありません。」
「じゃあいいだろう。俺はもうあの公園に行かない。今夜からまたお前が遊び相手になってやればいい。」
遊び、と言う言葉で少女の眉が跳ねる。初対面で怯えた顔を見たせいか気弱なイメージを抱いていたが、実際はもっと気が強くてプライドも高いのかもしれない。
「また駆の相手をしに来てやってくれなんて言いに来たんじゃありません。見て欲しいものがあって…」
そして彼女は瑛をそこへ引き留めると部室から一冊のファイルを持ってきた。
「これ、この間やった紅白戦の記録です。」
日付は11/25、駆と初めて会った日だ。三日前のことだ。
ファイルをめくると出場メンバーに駆の名前があった。傑と同じチームでフォワードを務めている。
しかし、得点の記録はない。
それどころか途中交代している。
「アイツ、マネージャーだろ。何で出てるんだ」
「傑さんが」
「あのブラコン野郎、職権乱用じゃねえか」
兄に無理に引っ張り出されたもののこれといった活躍ができず、自信喪失していたところに追い打ちをかけられていよいよ諦めた、というところだろうか。
あの日傑が調子を崩したのもそれが原因の一つだったのかもしれない。
「で、俺にどうしろっていうんだ?」
冷ややかに見下ろしても強い眼差しで見返してくる。駆よりよっぽど芯が強い。
「いいえ、それを見せたかっただけです。失礼します。」
脇をスッと通り抜けて足早に校舎の影に消えていった。
重さを感じない足取りだった。
駆の練習相手をしていたというが、女子だからといって舐めてかかったのは間違いだったかもしれない。せいぜいパスを返す壁代わりかと思っていたが、傑たち兄弟と一緒にサッカーをしてきたのだとすると。
少女の背を見送ってから返し忘れたファイルを思い出した。
仕方なく無人の部室へ侵入すると見計らったかのようなタイミングで国松が現れる。
「鷹匠さん何してるんすか!同じ学校だからって鷹匠さんは高等部なんですから、こっちの部室にいるのが先生に見つかったらうるさいことに…」
「お前がうるせえよ。いいじゃねえか、OBみたいなもんだろ」
「鷹匠さん、うちの中等部に在籍してたことないでしょう。」
あからさまなため息をついて視線を落とした国松は手元のファイルに目を留めた。
「この間の紅白戦の記録なんてどっから持ってきたんですか?」
「ちょっとな。そうだ、お前傑と別のチームだったんだろ?」
「ええ」
「傑の弟のこと、知ってるか?」
「駆のことですか?勿論。その紅白戦でもずっと相手してましたから。」
「マネージャーしてたんだろ。どうだった。」
漠然とした質問に少し考えて国松は答えた。
「アイツは半年もマネージャーやってたんで、正直少し舐めてたんです。
でも、どっかで自主練してたんじゃないかと思うぐらいよく動くんですよ。
傑もメンバー発表でいきなり指名しておきながら厳しいパス出し続けて、駆もそれを諦めなかった。」
「諦めなかった?」
「ええ。傑が部の中であんな厳しいパス出す相手はいません。
勿論なかなか拾えなくて、でも、兄弟だからどこに来るか察しがついてるんですかね。
惜しいところまでいくんで、俺も振り回されて、駆が交代する頃には大分足にきてました。」
国松の予想は的外れだと思った。相手が兄貴だから察しがつくんではなく、あれはボールの行方を嗅ぎ分ける嗅覚だ。
幼い頃のプレイをなぞったのなら拾えないパスなんか飛び出さない。