あるべきところへ
高校一年目の冬はベスト8で終わった。相手は今大会の優勝校だった。
悔しかったし、引退していく三年生の涙も見た。それでも三年生は「ここまでこれたのはお前のおかげだ」と頭を下げてくれた。そんなことちっとも思わないのに。
感謝されればされるほどそれがプレッシャーになる。力不足を痛感する。いつだってそうだ。誰かにとっての最後の大会の後なんて特に。ベストを目指して努力しても、同じように努力して全てを賭けて臨んだたくさんのチームがぶつかり合えば残るのはたった一校。
今年はその一校に残れなかった。それでも自分にはあと二年ある。
(思い描いていたような二年間にはならないだろうけど)
白い溜め息が頬に滑っていく。一月の空気を鼻に吸い込むと湿った土のにおいがする。それに潮の匂いが混じって視覚より先に海がすぐそこなのを教えた。
家を出てから四匹目の犬とすれ違った。時間はそう早くもなかったが、日の出の遅い一月は早朝散歩やランニングをする人が少なくなる。
犬に引きずられるように歩く人と出勤途中のサラリーマン。
そんな中にフードまで被ってこちらへ向かって走る人影を見つけた。
今日初めて見かけたランナーを新鮮に思っていたら、相手は途中で顔を上げてピタリと止まった。いきなり止まるのは体に良くない。
傑はフードで隠されたふっくらした顔に目を凝らした。でも、輪郭を正確に見極める前に足が動いていた。
ジョグからダッシュに切り替わるのを相手も素早く察知してまだ重そうな体を翻す。顔が確かめられなくても確信があった。
一緒に過ごしたあの頃はどっちが早く走たか。今となっては思い出せない。もしかしたら自分のほうが遅かったかもしれないが、今のコンディションで負ける気はしない。
カウンターを仕掛けてピッチを切り裂くようにゆるやかなカーブを描いた海岸沿いの道を駆け抜ける。アイツは信号を待つ余裕もないから歩道がつながるまま江ノ島に向かった。
けれど歩道は途中でゆるやかな坂になって砂浜に消える。砂地になったあたりで足をもつれさせて倒れこんだところを捕まえた。以前から持久力に難があった上、無駄の多いこの体だ。
フードが外れて見えた額に玉の汗が浮かんでいた。
「荒木……」
掴んでいたパーカーの布地を放した途端にフードをかぶり直して丸くなった。
「なんだよそれ……いじめられてるカメか」
「うるせー!ほっとけよ!」
「ガキみたいなことしてないで立てよ」
「俺がガキならお前なんかジジイくせーんだよ。いつもいつも……」
情けない格好のくせに口だけは一丁前だ。その背後にしゃがみ込んで上着の裾をつまみ上げた。
「ギャッ!」
縮こまったカメが肌の露出した腰を押さえて飛び上がる。
「な、な、何しやがる!」
「やって下さいって格好でケツ剥かれなかっただけ優しいだろ」
クスクス笑う傑は年代別代表合宿初招集の荒木に悪戯を仕掛けた張本人だ。
初招集の緊張をほぐして打ち解けようという大義名分の下、ターゲットの同室者を中心に行われる悪戯が恒例行事となっている。
中学三年で初招集となった荒木と傑は同室でこそなかったが、荒木と一番に親しくなったのが傑だった。普段大人しく見られがちの傑を荒木も大人びた子供だと思った。その夜にくだらない悪戯を成功させて腹を抱えて笑う傑を見て印象が百八十度変わった。
合わない間に忘れていたが、年代別代表常連で数多の悪戯を見て、そして加担してきた男なら寒空の下で半ケツぐらいはやりかねなかった。
シャツの下の素肌に冷たい手を押し当てられる程度で済んで良かった。
「シャツしまったら歩くぞ」
服の裾をウェストにしまい込む荒木を放って傑は先に歩き出した。それ以上逃げられるとは思っていない様子で。
急に止まるのは良くない。歩道を避けて砂浜を歩いた。
「説教だったら聞かねえからな」
素直に追いかけて後ろを歩きながら先回りして言ったら傑に再び「ガキくさい」と言われて丸い頬を更に丸く膨らませることになった。
「お前のことはもういいんだ」
「はぁ?!どういう意味だよ」
説教はされたくないが、どうでもいい扱いを受けるのも納得がいかない。思わず張り合うように横に並ぶと真面目な顔で見つめられることになった。
「毎日走ってるのか?」
「……今さっき俺のことはもういいって言ったばっかだろ」
「毎日走ってる割には前に見たときとあんまり変わってないように見えるけど」
「――――ッ!」
正月太りが解消されて、ちょうど年末頃の体型に戻ったばかりだった。ふくれっ面が更に赤くなる。
こんなところで会う予定はなかったのだ。まだ。
「ボール持ってくれば良かったな」
傑がポツリと呟いた。
「砂の上でやったら俺の方が上手いからお前嫉妬するぜ」
「そういえば、江ノ高の同好会は浜で練習するんだってな」
「知ってたのか」
「最近聞いた。弟からさ」
弟……。小首を傾げて三秒ほどでポンと手を打った。
「ああ!一つ下の……駆っていったっけ」
「よく覚えてたな」
「どっかのブラコンがしょっちゅう自慢してたからな」
今度は傑が渋い顔をする番だ。
「まさかその弟がうちに来るってのか」
「ああ。しかもお前と同じ同好会に入るって言ってる」
咄嗟に返す言葉を失って涼しい顔をした傑をしげしげと見た。記憶が確かなら傑は弟も自分と同じ鎌学に進むと信じていたはずだし、大事な弟を喜んで同好会なんかに入れるとは思えなかった。
「練習も見学に行って、監督ともよく話して決めたから俺がなんと言おうが考えを帰るつもりはないらしい。結構頑固なんだ」
不機嫌どころか口角がゆるく持ち上がっている。
「兄貴も頑固なら弟もか」
「…………」
自覚はあるらしい。それでもきちんと物事説明されて納得すれば素直に受け入れるのも傑だった。自分が正しいと思えば一分前の自分にだって引きずられない。荒木が傑に敵わないと思うのはこんなときだ。
「弟はお前と一緒に公式戦で俺たち鎌学を倒すって言ってる」
「大きく出たな」
「大きいもんか。県予選規模の話だぜ」
世界で戦う傑が率いる鎌学がいるとあっては県予選でも充分大きな目標だ。傑は皮肉や冗談じゃなく真顔で言うので肩をすくめるしかない。
「だって、同好会の監督はワールドカップ目指してるんだろ?」
叶わない夢を語るときの声音じゃなかった。
「考えて見れば高校が別れたって、駆が代表に呼ばれさえすれば案外早く一緒にやれるかもしれないんだよな」
「ちょっと待て、弟だけかよ!」
「その腹で来たら荒木が合宿所を飛び出す前に監督が追い返すだろ」
「ぐ……ッ」
傑は愉快そうに笑った。冷たい潮風に鼻の頭を赤くして歳相応の顔で。
「そうならないようしっかり痩せろよ」
「うるへー!」
威嚇に振り上げられた荒木の拳をいなして大股で一歩分逃げた。踊るように振り返る。
「待ってるから早く追いついて来いよな!」