あるべきところへ
空気がすっかり春だ。
土と草が混じり合った懐かしいような生々しいような匂い。
自転車で海に出ると水平線が見えるより先に潮風が体を包んだ。
強い風を受けると少し肌寒い。
結局代わることのなかった熊谷監督の都合で短時間で終わった部活後、自主練もせずに自転車に飛び乗った。
駆が一番に帰るのは珍しいことだった。今年の部長を務める佐伯に呼び止められても理由をごまかした。親友の佐伯にもまだ打ち明けていないことだった。
家とは別の方向にハンドルを切って江ノ島に向かった。
距離の近さに反してこうして一人で自転車を走らせることのない新鮮な景色が視界の端を流れていく。
江ノ島高校フットボールクラブの練習場を目指していた。しかし江ノ島高校には向かわない。
『グラウンドは学校公認のサッカー部が使っているのでね。』
首を傾げると岩城は苦い笑みを浮かべていたずらっぽく『同好会なんです』と言った。
正規のサッカー部でないことを告白して苦い顔をされることに慣れているのだろう。駆が思わず眉根を寄せても慌てる素振りはなかった。
『グラウンドは滅多に使えませんし、部員数も少ない。でも、うちの部員は全国制覇、いや、もっと上を目指している選手ばかりですよ』
もっと上。高校サッカーで終わらない大きな夢。
冗談やハッタリではない、強い目と頼もしい笑顔に本気だと直感した。
傑のような誰の目にも才能のある選手に大して世界の話をする監督はいくらでもいる。一緒に大きな夢を見たくなる。傑はそんな選手だからだ。
でも、存在さえあまり知られていない小さな同好会で、名前も知らない実績もない中学生相手に、こんなに真面目に世界を目指せという人を初めて見た。
小学校の頃には兄と一緒にワールドカップを目指していた。本気だった。
その夢を見失ったのはいつだったろう。
初めて兄に「一緒にワールドカップに出るんだ」と言われた記憶が頭をかすめる。傑からのラストパスを受けた駆がゴールを決めて勝った試合の後だ。
みんな浮かれていて、駆は帰宅してからもずっと上機嫌だった。兄弟二人で反省会をする間もいつもより浮き足立っていて、そんな時に傑が言った。
『いつか、一緒に――――』
勢いで出た言葉ではなかったと思う。はしゃぐ駆の隣で頼もしい笑顔で言った。あの時もすぐに本気だとわかった。迷わず頷いた。
指切りをした。
心を動かされたのは間違い無くあの瞬間だった。
『暖かくなったら一度うちの練習を見に来ませんか?天気のいい日は大抵浜でやってますから』
砂浜での練習について、江ノ島高校の名前を伏せて奈々に尋ねてみた。
駆よりサッカー部でマネージャーをやっている奈々の方が詳しい。
『足場が悪い分鍛えられると思うわ。ボールも転がらないはずだし。面白いと思う。』
奈々に面白いと言われてもっと心が傾いた。
公認クラブでないという不安も消えはしなかったけれど、岩城は「大会には出られない」とは言わなかった。
『校内試合で公認クラブに勝てば、学校代表として出られるんです』
岩城は勿論勝つつもりだ。
浜辺に蹴り上がるサッカーボールが見えたとき。オーバーヘッドでゴール代わりらしい建物だけの海の家にボールが叩き込まれたとき。自転車のグリップを強く握りしめた。
海開き前の浜辺で季節外れの海パンとビブス姿の裸足の少年たちが駆け回る姿は遊んでいるようにも見える。でも、じっと見ると遊びではないのがわかる。
浜より二メートルほど高い路上から見る限りでは確かに人数は少ない。でも、誰もが楽しそうに走り回っているのが印象的だった。
そして想像していたよりずっと上手い。
中には駆よりも小さな選手もいた。彼は小柄な体格をものともせずゴール前に運ばれたボールを奪う。
砂の上とは思えない軽快さでパスが回り、何度もシュートが打たれ、それをやはり海パン姿のキーパーが弾く。
その中でも目を引いたのは長い髪を後ろで一つに結わえた選手だった。
一人だけレベルが違う。柔らかなボールタッチ。正確なキック。周囲に的確なパスを出したかと思えばきれいな弧を描くループシュート。
天才と呼ばれる兄を見慣れた駆でさえ目を瞠るような。
笛が鳴った瞬間に半数近くが砂の上に崩れ落ちて顔いっぱいに疲労を浮かべた。
一瞬前までいきいきした顔で大胆なプレイを連発していた姿のギャップに戸惑うほどだ。
「なるほど。硬い土の上に比べて砂の上なら怪我も気にせず自由なプレイができるんだわ。」
隣で発せられたコメントに素直に頷いてからパッと隣を見た駆は目を丸くして口をパクパクさせた。
一人でここまで来たはずなのに、何も言わなかったはずなのに、奈々がいる。
ニッコリ笑って「置いてくなんて酷いじゃない」と。
「この間の砂浜での練習ってここのことだったのね。」
駆は心配したけれど機嫌を損ねたわけではなさそうだ。興味深そうに自転車から降りて柵から身を乗り出すように見ている。
「確かに駆向きかも」
それは独り言のようなトーンだった。だから返事をしなかった。
「どこの高校?高校よね?」
「江ノ島高校フットボールクラブですよ。」
答えたのは岩城だった。彼もまた部員たちと同じ海パンにジャージを羽織った姿で足元はビーチサンダルだった。
奈々の顔を見て「おや?」という表情を浮かべたが何も言わなかった。
「興味を持ってもらえましたか?」
疑問形ながらも顔はもう答えを知っているようだった。
奈々が同好会の事情や砂浜での練習の意図をを岩城に質問している間にも駆は砂の上で思い思いに休憩中の部員たちを眺めていた。
あの髪の長い彼を。
車道で何かあったらしい。クラクションが鳴った。
その拍子に顔を上げた彼と目が合う。
「彼は、荒木くん」
いつの間にか真横にきていた岩城が部員たちに手を振りながら言った。
「うちの10番予定の、荒木竜一くんです。」