あるべきところへ
熱の時はろくな夢を見ない。輪郭の曖昧な悪い夢の後味がそのまま体の不調に取って変わって目が覚めてもあまり楽にならない。
でも、熱は下がったようだった。体温が落ち着いたおかげで自分の布団だというのに違和感がある毛布の中から腕を出すと汗だくの肩のあたりからひやりとした。
口がカラカラだった。枕元に置かれた折り畳みのテーブルにストローの刺さったポカリの缶があった。
「あ、カケ兄起きたんだ」
顔を出した妹が冷たいタオルを手に顔を出した。
「もうおデコ冷やさなくて大丈夫?さっき携帯光ってたよ」
相槌を打とうとして喉が痛いのに気づいた。まだふわふわした体を動かしてポカリに手を伸ばし、指が滑る。まだたっぷり中身があったらしい缶がテーブルを転がりながら中身をまき散らした。
あ、と思うより先に美都が声を上げて手にしていたタオルをテーブルに押し付ける。
「あー、もう!携帯濡れちゃったじゃん」
ポカリの水たまりに携帯が浸かっているのを見て眉毛が八の字になる。
でも自分でやったのだから誰も怒れない。仕方ない。部活の連絡は家の電話からセブンにでも聞けばいいし、修理に出すとお店が代用機を貸してくれるって知っている。
そう片付けて缶にほんのちょっぴり残ったポカリを飲んだ。
テーブルを拭いてくれている美都が怒ったけど病人扱いしてくれるならこれぐらい許して欲しい。
一口にも足りない液体ではちっとも潤わなかった。
携帯が水没したら、まず電池パックを外して水分を拭き取れる限りとにかく乾燥。陰干し。もしくは冷蔵庫で冷やす。完全に乾燥するまで電源を入れないこと。
冷蔵庫で二日冷やした携帯の電源を入れて五秒。そっと二つに折りたたんで母に頭を下げた。
修理代の一万円札と傑をお供に携帯ショップに向かったのは数日後に選手権大会開会を控えた年末のことだ。
年末だからか年末なのに、か。予想以上に混み合う店内のソファに詰めて座った。カウンターでは耳の遠そうな老女に女性店員が声を張り上げていた。
「結構時間かかりそうだね」
「急がないから別にいいけど、飯食ってから来ればよかったな」
待ち順にソファに座っている関係でそこを離れて陳列されている機種を見に行くわけにもいかない。手近にあったカタログを開いてみる。
「どうせ修理じゃなく交換だよね」
「ああ、国松が前にケツに携帯入れたまま先輩たちに海に放りこまれてダメにした時はそうだった」
「高校で?」
「今年の夏な」
「うわー俺も高校に入ったらポケットに入れっぱなしにしないよう気をつけようかな」
「お前やられそうだもんな」
「なんだよそれ!」
「先輩にかわいがられる性質だってこと」
「褒めてる?」
「まあな」
カラフルな端末が並ぶカタログを見ながら買う予定もないのにアレがいいコレがいいと指差しページをめくり、ついにひと通り見尽くしてしまった。
「まだ順番回ってこないね」
「別の店舗行けば良かったな」
「あ。あのおばあちゃんやっと終わったみたいだよ」
腰の曲がった老女が大声で説明をしていた女性店員にペコペコ頭を下げながらのんびりカウンターを離れていく。首には高齢者をメインターゲットにした通話機能だけのシンプルな機種を提げている。
一仕事終えた女性店員はすぐさま別の店員から回された顧客を確認して名前を呼んだ。さっきの老女とのやり取りを引きずったよく通る声で。
「アラキ様」
敏感に傑が顔を上げる。駆も兄につられて顔を上げた。
呼ばれて立ち上がったのは別のソファの隅に座っていた柔道部体型の青年だった。フード付きコートの下のセーターごしにも腹が丸いのがわかる。
その後ろ姿をチラリと見て肩の力を抜いた。しかし、彼がカウンター前に座る直前、横顔を見た傑が立ち上がった。
「兄ちゃん?」
アラキの用事はすぐに終わったようで程なくして椅子を立った。そして振り向いてすぐに満員のソファでただ一人立ち尽くしている傑に目を留めた。
切れ長の目が丸くなる。
「…………傑っ」
あ。そこで駆も思い当たった。体型がずいぶん変わっていて印象が違ったのですぐには分からなかったが。
彼、荒木は傑から顔を背けるようにして足早に店を出て行った。
「兄ちゃん」
「……悪い、何でもないよ」
やっとソファに腰を下ろしたが、足の間で組んだ手をじっと見つめて口を引き結んだ。躊躇いがちに駆はその名前を口にした。
「あの人、荒木竜一さん……?」
「何で駆がアイツを知ってるんだ」
兄には江ノ島高校FCの練習を観に行ったことも、そもそも岩城監督と会ったことだって話していなかった。きっと傑も瑛と同じく駆は内部進学で鎌倉学館の高等部に進むものだと思っている。
受験の頃にはどのみち知れることだ。早いうちに話さなければと思いながら、傑が大会に向けて忙しくなるのを言い訳に先延ばしにしていた。
「あのさ、……実は俺、」
「お待たせいたしました、次のお客様――――」
忙しそうな店員が呼んだ。兄弟の番だった。
「後で話すよ」
水を差されて一息つくと変に緊張していたことに気づく。
それまでは兄の期待を裏切るのが申し訳ないように思っていた。今は進路のことを兄に打ち明けたら怒らせてしまう。そんな風に感じて言葉がなかなか出てこなかった。