あるべきところへ
本気で会えると思っていたわけじゃない。この辺の地理も最低限しか知らなかった。
とりあえず足の向くまま公園に出た。ここから駆と傑の家までは迷わずいけるが、それはストーカーみたいだからやめた。気晴らしの散歩だと自分に言い訳してちょうど増えてきた人の波に乗って歩いてみた。
家族連れが二組とカップルがそれぞれのペースで同じ方向へ歩いて行く。どうやら神社に向かっているらしかった。この辺に来るのはいつも夜中だから、そんなところに石段があって神社があるのも知らなかった。
石段を見上げて少し考えて引き返した。参拝は時間がかかりそうだし財布を持ってこなかった。すぐ戻ると言って出てきたのに、少し歩き過ぎたかもしれない。
それでも結局、見知った顔とは会わなかった。
往生際悪くあたりを見渡すと、何となく見覚えのある顔が歩いている。駆でも傑でもない。小太りで髪が長くてつり目気味で。
(誰だ?学校の連中じゃない。でも、絶対に見たことが――)
車道を挟んで向こう側にいた相手が立ち止まって見つめていた瑛を振り向いた。ギクリと動きを止める。連れの女性――多分母親だ。容姿がよく似ている――も足を止めて息子のだらしのない脇腹をつついた。
『お友達でしょ、挨拶しなさい』ってところか。丁度近くの歩行者信号が青に切り替わって、母親に引きずられるようにして目の前までやってきた。
誰だか思い出せない上で面倒なことになったと思ったが今更避けようもない。ソイツは母親に後頭部をひっぱたかれてしぶしぶ頭を下げた。
「あけましておめでとうございます」
たしかに声に聞き覚えがある。まったく敬意のこもらない会釈からの上目遣い。生意気な顔だった。
「……荒木」
そう、荒木だ。一度だけ、U-15の代表合宿で一緒になったことがある。後にも先にもそれっきりだったが、目を引く男だった。当時はこんな不摂生の塊のような体をしていなかったが。
「お前、その体……」
荒木は頭ごと目を逸らす。
「あの、急ぐんで」
その腕を反射的に捕まえた。クソッ。腕にも無駄な脂肪がついてやがる。
「なんでお前こんなとこにいるんだ」
「なんで…って初詣ッスよ。いきつけの神社が近いんス」
「なにが行きつけよ」
後ろから母親が口を挟んできたのを物理的に阻んで今度こそ立ち去ろうとする荒木を二度引き止めた。
「待てよ。お前今何やってんだ……」
そこでふと県予選で江ノ島高校の試合を見に走った傑の姿が頭を過ぎった。江ノ島高校もここからそう遠くない。それに、江ノ島といえば駆が――。
頭の中で全てがカチッと音を立てて噛み合った。江ノ島の魅力は分からないままだ。それでも。
「荒木、お前江ノ島高校に入ったのか」
太っても変わらないつり気味の目が丸くなる。
「なんでアンタがそれ知ってんだ」
「やっぱりか。しかもサッカー部じゃねえ。同好会にいるんだな?!」
「……傑ッスか?」
逸らされた視線が何も無い宙を彷徨って地面に落ちた。
「もう同好会にもいませんよ。」
「その体……辞めたってことか」
似た様な会話を他でした覚えがある。
傑は面倒な奴にばっかりハマる。こんなハートが弱くて才能を無駄にするような奴ばっかり。
「…………」
「選手権予選にはいなかっただろ」
断言すると独り言のように吐き捨てた。
「なんでそこまで詳しんだよ」
「傑が観に行った」
ハッと顔を上げる。目が「嘘だ」って言うようだった。
「俺はお前が江ノ島に進学したのも知らなかったから傑についてっただけだ。でも、なるほどな。アイツお前を探してたのか」
丸い顔が一瞬情けなく歪んだ。またデジャヴだ。アーモンド型の目がキュッと細くなって口を引き結ぶ。こんな表情を知っている。サッカーをやめると言いながら諦めきれていない奴の顔だ。
部活を離れたのはここ数ヶ月のことだろうに、こんなに肥えておきながら。まだ諦めていない。
まとわりついた何かを払うように頭を振って荒木は背を向けた。
「じゃ、今度こそマジで行くんで」
「オイ、待てよ」
「しつこいッスよ!」
顔を向けずに荒木は足を止めて腕を振り払った。
「ひとつだけ聞かせろ。お前、なんで江ノ島の同好会なんかに入った」
きょとんとした顔で一旦目を合わせた荒木はどこか遠く。見えやしない海の方を見ながら確かな声で答えた。
「面白い監督がいるんすよ。ウチはその人に口説かれた奴ばっかだ。公式クラブから移った奴もいる」
「面白い?」
「高校サッカーで優勝することを小さな目標だって言うんだ。公式クラブとの校内試合でも負けて公式戦にも出られてねえのに、本気でワールドカップを見据えてる」
「……リップサービスばっかりで指導力がない監督か」
荒木は笑った。目を合わせないまま。
「ハハッ。そう思うよな。でも、あの人はバカじゃねえ。……信じてみたくなるんだよなぁ」
最後はほとんど独り言だった。
「そんじゃ。あ。ここで会ったこと傑にはゼッテー言わないで下さいよ!絶対ッスよ!」
念を押して荒木は先に行ってしまった母親を追って走りだした。
「ったく、重そうな体しやがって」
瑛も真っ直ぐに祖母の家に帰った。脇目もふらず。
江ノ島高校の同好会はきっと考えの甘い奴ばっかりだ。監督が夢見がちならそれに釣られて入る部員もそうだ。苦しそうな顔で「辞めた」と言った後なのに、遠くを見つめて楽しそうにワールドカップの話なんかする。
熊谷監督は今年のチームに自信を持っている。傑がいるのが大きいが、瑛にも、他のメンバーにも期待をかけている。それでも高校サッカーを通過点のようには語らない。チーム全体が全国大会優勝だけを目指している。
その中で、ただ一人。その口からワールドカップ優勝が夢だと聞いた男がいる。傑だ。
『ガキの頃からワールドカップ優勝が夢なんです。弟と一緒に。』
『また弟かよ』
『また、ってそんなに言ってないじゃないスか!』
『うるせえ。自覚しやがれブラコン。お前は弟を買いかぶりすぎだ』
『今はまだまだですけど、どうせ叶わないなんて、一度も思ったことないんスよね』
その辺の空き地でボールを蹴っている子供が言えば魔法の話みたいに聞こえそうな夢も、天才と呼ばれる男が言うと現実味を帯びる。
果てしない可能性と周囲の期待とプレッシャーを背負いながら、ガキみたいな嬉しそうな顔で話す。言いたくはないが眩しかった。実力の問題じゃない。理屈でもない。人間としての傑の魅力を強く感じた瞬間だった。
『弟と二人の夢なんです』
胸の奥がゆっくりと、一息ごとに熱くなった。そのくせ苛立って頭をかきむしる。
(駆のことを見くびっていたのは誰だ)
焦燥感で早足になる。冬の乾いた空気を白く濁す呼吸が弾む。舗装された地面を蹴る。体がそうしろと求めているみたいに、要求に何も考えず従うみたいに走った。
さっきは無人だった公園に幼い子供が二人いて、海外の有名選手の名前を叫びながらボールを高く蹴り上げた。