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走る

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 一ヶ月ぶりに会った日比野は、まだ駄菓子屋のにおいがした。
 部活か体育か、着替の時に丸めておいたのだろうシャツはシワだらけだったし、最寄り駅を出るときに何をぼんやりしていたのか改札で引っかかっていた。恥ずかしそうにキョロキョロして、笑う駆の頭を叩いた。
 一緒に歩くとき、駆はあまり日比野を見ない。二十センチもある身長差のお陰で横を見上げるのが面倒くさいからだ。並んで歩く海岸沿いの道は下校や帰宅する人の自転車が行き交い、それを避けて詰めて歩くと余計に顔は見えなくなった。
 小学校の頃は十センチも離れていなかったと思う。駆はクラスでは小さい方で、日比野は真ん中ぐらいだった。離れていた時間に日比野ばかり大きくなった。誰からも変わらないと言われる駆と違って顔つきにも逞しさがにじみ出ている。
 知らない間の幼馴染みの変化は駆を落ち着かなくさせた。悔しさや焦りではないと思う。自分だって成長しているのは試合をして実感した。知らない人のようだとは思わなかった。再会からもう一年経つ。それでも妙に意識してしまうことがあって、落ち着かなくなった。
 幼い頃には些細だった性別が、あからさまに違う男女の体つきとかポケットに押し込んだ知らない女の子の恋心によって浮き彫りにされると。

 五分ほど歩くと江ノ島高校サッカー部が練習場にしている浜に出る。
「ここが噂の」
 呟くと日比野は舗装された道を真っ直ぐ行こうとする駆を置いて石階段を降りた。駆もそれを追って浜に降りる。
「海はしょっちゅう来るけど砂の上でボール蹴ったことはねえな」
「今度、やる?」
「監督とかキャプテンに言ってみっか」
「砂浜でうちと合同練習しましょうって?」
「そうそう」
 裸足になって制服の裾をまくりあげると逞しい脛が見える。踝のあたりを見つめていたら何となく素足を並べて大きさ比べになり、二センチ弱大きい日比野が「勝った!」と意味もなくガッツポーズをした。負けた駆が砂を蹴ると日比野は余裕顔で笑って波打ち際に逃げる。
 しばらく砂の蹴りつけ合いをしてふと顔をあげたら浜の向こうで手をつないだ男女が見えた。立ち止まった駆の視線を追いかけて日比野もそれを見つける。空がオレンジから紫に近づいていた。
 ぼんやり見つめる駆の額に日比野が手を伸ばす。前髪に触れる前に静電気でも走ったみたいに身を引いた。駆より少し指が太い、同じ男の手だった。奈々や妹よりゴツゴツして。自分の手は毎日見ているものだから違和感はないが、時々女の子の手と並べると不思議に思う。足も腕も浮き出た喉仏も。
 中学で奈々が再び同じ学校に通うようになっても奈々が駆と一緒のチームでプレイすることはなくなった。女子は女子、男子は男子。それでも、女も男も毎日異性の目を気にして、恋愛の話をして。それも子どもっぽいごっこ遊びの延長なんかじゃなくて。
 駆には遠く感じた。
「日比野、あのさ」
 日が暮れる前に、帰る前に渡さなきゃいけない。切りだしてもまだ渡したくない気持ちがあって言葉を切る。
 ポケットに入れっぱなしの手につい力が入って預かった封筒を握りこんだ。
「ヤバッ」
「どうした?」
 まさか駆がラブレターなんか持っていると思わない日比野は「忘れ物なら戻るか?」なんて言って道を振り返っている。
「忘れ物じゃないんだけど……」 
 ポケットの中でシワを伸ばしながら決心する。
「これ」
 ポケットから出した封筒はまだ少し端が折れていて、慌てて伸ばして日比野の胸元に押し付けた。
「これ……えっ!?」
 駆の顔と胸元の手紙を素早く二往復した日比野はゴクリと喉を鳴らした。もう一度上目遣いに駆を見て、封筒をしっかり受け取った。しかし、表に書かれた自分の名前に目をすがめる。やや縦長のキレイな文字だった。更に裏返して差出人を確認し、眉間にくっきりとシワを寄せた。
「なんだこれ」
 一瞬前のはしゃいだ素振りが嘘だったような低い声。駆は肩をすくめた。
「何って……友達ってわけじゃないんだけど、日比野と友達なのを聞きつけた子に頼まれたから。」
 予想と違う。もっと浮かれるのを想像していた。
「前に日比野に電車の中で痴漢から助けられたんだって。覚えてる?ショートカットで目が大きめの……」
「痴漢のことは覚えてるけど顔なんか覚えてねえよ。」
「そう……でも、可愛い子だったよ。」
 気がすすまないのに手紙を預かった手前ついフォローしてしまう。日比野は面白くなさそうに「ふぅん」とだけ。封も開けずに突き返した。
「わりィけど興味ねえから。」
「読んでないじゃん」
「読むほども興味ねえんだよ。」
 ホッとして手の中に戻ってきた手紙をポケットに戻す。日比野は砂を蹴った。打ち寄せる波に向かって、今日一番大きく強く。駆には日比野が何を蹴飛ばしたのかわからなかった。それでも、手紙を受け入れなかったことに安堵していた。
 しかし、振り返った日比野の目に息を詰める。怒っている。そう思った。
 小学校以来の再戦を果たす前みたいだった。イラついているようでいて、怒鳴ったりしない。気に入らないならいくらでも詰って欲しいのに。
「……ごめん」
 何を責められているかわからないまま反射的に謝ると深い溜息をつかれた。
「もう、そういう取り次ぎするなよ。」
「うん。……こういうのは本人から渡された方がいいよね?」
「そういうことを言ってんじゃなくて、あー…………お前とそういう話したくねえんだよ。」
 プライベートから締め出された。自分だって恋愛話なんか面白くないと思っていたのに。日比野の反応が予想していたよりずっと冷ややかだったからかもしれない。自分と一緒だなんて思えなかった。想像の中の女の子と付き合う日比野よりずっと、目の前の現実の日比野を遠く感じた。
「うん、ごめん」
 乾いた砂に視線を落とした。薄暗くてもう何が落ちているかもよく見えない。
「いや、謝るなって。怒ってんじゃなくて、これは……」
 風と波の音で足音はしなかった。気配だけで日比野が近づいてくるのがわかる。
「何か変な誤解してるだろ。顔上げろよ。」
「日比野こそ何気にしてるんだよ。」
 戸惑うような優しい声で顔を上げろなんて、泣いていると勘違いしたのかもしれない。少しきつく言われたぐらいで泣くはずもないのに。馬鹿だな。
 変な心配をさせないように寂しさを隠してグッと口角を上げて顔を上げた。思いのほか近くにいた日比野の手が顔に伸びてきて、軽く仰け反っても追いかけて頬を拭った。そこに涙跡でもあったみたいに。でも、涙なんか一滴も流していないから僅かにくっついていた砂を擦っただけだった。
 暮れかけの夕日が顔の陰影を濃くする。
「ずっと言うつもりなかったんだ」
「え?」
「言ってもどうしようもうねえと思って。でも、どっかでどうしても期待しちまう」
「何を……」
 尋ねる語尾に言葉がかぶる。
「お前のこと、好きなんだよ」
 苦しそうに絞り出された声だった。言葉の意味より先に辛いことを打ち明けられたんだと分かった。その内容を理解するまでに時間がかかった。
作品名:走る 作家名:3丁目