女神の祝福
三国が自宅へ帰った時には時刻は二十一時をまわった頃だった。南沢とのデートの帰りは終電ギリギリが常だったが、今日は明日が早いと言う南沢の事情のために早めの解散となった。
(次は、いつ会えるかな……)
リビング兼ダイニングへの扉を開けると、母親がテレビを見ていた。
「ただいま」
「おかえり。今日は早かったのね」
「ああ。南沢が明日は早いらしいから」
「南沢君、元気にしてた?」
「相変わらずだよ」
洗面所で手と顔を軽く洗って、リビングへ戻る。空いてるソファに腰掛けて、母親とテレビを見る。内容は、一般人の男性が彼女へプロポーズをするのをタレントが応援するというものだった。内容を知って、三国は内心(しまった)と思った。こういう状況で、最近母親が言う台詞は決まっていた。
「太一、あなたにもそろそろいい人いないの?」
画面の向こうで一大決心のプロポーズをしている男性には目もくれず、母親は自分に問いかける。
そして、こういう時に自分が返事する言葉も一緒だった。
「いないよ。いまは仕事と自分のことでいっぱいいっぱい」
そう答えると、母親はいつものように「そうなの」とすこしだけ残念そうな顔をして、「でも太一ならすぐいい人が現れるわよ」と笑顔になる。
この笑顔を見る度に、三国は心にチクリと針が刺さる。母親に嘘をついている事実と、母親に真実を告げる勇気がない事実にだ。
(ごめんな)
心の中で、もう何度めかわからない謝罪を母親に告げる。
番組の内容はいつの間にかコーナーが変わって、この番組でめでたく結ばれた夫婦に第一子が誕生した内容になっていた。画面いっぱいに、幸せそうな笑みをたたえた女性が小さな赤ん坊を抱いている。それを自分のことのように嬉しそうに見る母親の横顔。三国はその横顔を見て、思わず言うつもりもなかった台詞が口から出た。
「やっぱり、母さんも早く孫の顔が見たい?」
母親はすこし考えて、いつもの笑顔で答えた。
「おばあちゃんになるのはちょっと抵抗があるけど、あなたの子供だもの。そりゃあ早く抱きたいわね」
心臓に針がいくつも刺さる。
母子家庭で、家庭を守るためにバリバリと仕事をこなしてきた母親は、背筋をピンと伸ばして実年齢よりも若く見えていた。しかし三国が就職してからは、肩の荷が降りたのか昔よりすこしだけ年齢を感じるようになった。皺が目立つようになった顔。すこし細くなった肩。
(そんな母親のささやかな願いも叶えてやれないなんて)
三国はソファから立ち上がった。勢いあまってすこし派手な音をたててしまい、母親が驚いた。
「どうしたの?」
「いや、風呂入ってくる」
いまはこの場から早く立ち去りたかった。ドアのノブに手をかけた時、背中から母親の声が届いた。
「太一、なにか母さんに言いたいことがあるんじゃないの?」
なにもないよ。そう言おうとしたが、ノブに手をかけたまま動けなくなった。
ゆっくり振り向くと、母親がすこし心配そうに、でも強さを持った笑みをたたえて自分を見ていた。いままで女手一人で自分を育て、守り、受け止めてくれた強さを秘めた瞳だった。
三国は一度瞳を閉じて、小さく深呼吸した。そして、ソファに戻った。
「……母さんに、謝らなきゃならないことがある」
小さな告白を、母親はまっすぐに自分を見据えて受け止めた。
「俺、本当はずっと付き合ってるやつがいるんだ」
どう説明すれば上手く伝わるだろうか。頭をフル回転させて、言葉の波からふさわしい言葉をひとつひとつ選んでいく。母親は急かすことなく、ただ静かに自分の言葉を待った。
「いままで母さんに言えなかったのは、恥ずかしかったからとかそんなんじゃなくて、どう言えばいいかわからなかったからなんだ。……いや、本当は言っちゃいけないようなことなのかもしれないって、いまも思ってる」
男を好きになって、男と付き合ってる。間違ったことでも、許されないことでもないと三国は思っていた。ただ、いつからか心のどこかで妙な罪悪感が首をもたげていた。
「俺たちは、さっきのテレビみたいに周りの人たちから祝福されるべき関係じゃないんだ。街中を大手を振って手を繋いで歩いちゃいけないような、ひっそりと隠れて静かに生きていかなきゃいけないって思ってる」
友人や知人から結婚、出産の報告を知らされる度に思い知らされる絶望。自分たちには彼らのような未来が訪れことは決してないのだ。
「だから、母さんにもずっと言えなかった。それに、子供も産むこともできないから、このままだと母さんに孫の顔を見せてやるなんてこと絶対できない」
もし、自分と南沢が男と女同士だったらどんなに良かっただろうかと何度思ったか。仮定の話がどんなに無意味だろうと、そうでなくても幸せであったとしても、それを完全に拭払することはできなかった。
「ごめん、母さん……」