クマさん、あのね
眠りから抜けだしてきた身体ははじめ、芯に残った温かさで寒さなど感じなかった。
暗い中を、勘と記憶を頼りに進む。裸足の足はぺたぺたという軽い足音を連れて歩いた。
キッチンへ行くと、ぽた、ぽた、と音がした。耳を澄まして方向を探る。蛇口の先から水が漏れていた。明日アーサーさんに教えてあげよう、と思いながら、手の届かない蛇口に、心の中で「止まって」と願う。蛇口は素知らぬ顔でぽたりぽたりを続けていた。
引き返し、今度は居間へ向かった。暖炉の奥の方でうっすらと、炭のひとつふたつがまだ赤い光を放っていた。
(もしかして、ちゃんと消し忘れたのかな?)
火かき棒で炭を突いて崩すと、赤い光は果敢無く消えた。重く冷たい火かき棒を元の位置にそうっと戻す。手に残る鉄の匂いは何だか好きになれない。
暗闇に慣れ始めた目が、居間のカウチに放り出されたコートをとらえる。アーサーのものだ、とマシューは思った。絨毯に足を取られないように注意を払いつつ、コートへと近寄って、躊躇いがちに爪の小さい指を伸ばした。
くちゃ、と意図的に皺を寄せるみたいに捨てられたコートを指先でおずおずたどる。かたい。少しだけ持ち上げてみる。重い。ポケットのいくつかにずっしりとした何かが入っている。胸元からは羽ペンが二本飛び出していた。
これは、およそ服だとは思えなかった。体を守り、あたためるためのもの?これが?まるで鎧かなにかだ。ポケットにいろいろなものをねじ込んで、大切なものも必要なものも、いつでも体から離れない、離せない。かたくて、伸びの悪そうな、大人のコートがそこにあった。
短い腕で、できるだけきれいに畳もうかどうか迷って、マシュー腕を下ろした。勝手にさわってしまったことで、彼の気分を害したくなかった。そうでなくても、彼とは偶にしか顔を合わせられないのに、その短い時間を気まずく過ごすのはいやだった。コートは初めと同じように、くちゃりとカウチに眠っている。
(指、つめたくなっちゃったや。)
気がつくと、はじめはなんてことなかった夜気の冷たさが、じわりじわりと足先を苛めている。
暖気の残る居間を出た途端、廊下が急に寒々しいものに思えた。
「……もどろう」
わくわくしていた心はいつの間にかしぼんで、世界中に一人になってしまったような空虚さがふつふつ込み上げる。お化けは出なかったし、寒いし、手のひらは鉄臭い。背の小ささまで見せつけられた気分だ。けれど何よりたぶん、とマシューは思う。いま、一番寒いのは、こころだ。
寝室はどっちだったか、と廊下できょろきょろ首を振る。すると眼の端にまた、暖炉の中の熾きのような明りが見えた。
(あれ?)
改めて見直すと、それは部屋の中の明かりが漏れてできた、細い光の帯だった。
(アーサーさんの部屋だ)
こっちでは灯りを消し忘れたのだろうか。考えながらぽてぽてと歩き、マシューは扉の隙間に指を差し入れ、片目だけで中を覗き込んだ。
黄色いランプの机灯りの元、アーサーは居た。
マシューの驚くべきことには、彼は灯りを消し忘れたのではなく、煌々と灯しながら、未だに何か書き物を行っていた。
(夕食前にもお部屋でお仕事をしていた。おやすみを言いに来てくれたときは、出かける格好をしていた。帰ってきたのはいつ?いまは何時?)
糊の取れかかったシャツの袖を無造作に捲り、羊皮紙に恨み辛みをぶつけるようにがりりとペンを走らせる背中。丁寧に書けばそれはそれは秀麗な文字を生む手先が、今はきっと飛び散ったインクで汚れ、綴られた文字も飛び掠れているのだろう。
背中から伝わる気迫に飲まれつつマシューが息をのんで見守る中で、アーサーは「Shit!」と悪態を吐きながら不意に羊皮紙をぐしゃぐしゃに握り潰し、その紙を叩きつけるようにして後ろへ放った。
マシューの方へ、攻撃的な紙の拳が飛んでくる。
「あっ」
「!?」
思わず漏らした声は、時の知れない夜の中でまっすぐにアーサーまで届いた。いつも自分の発言を遮る兄弟が居ないことを、マシューは初めて口惜しく思った。
アーサーが椅子ごとがたりと振り向く。
「Alfre-?」
最後の“d”は発音されず、ただ驚きの顔で振り向いたアーサーの口からは吐息だけが落とされた。それが二重の驚きであることは、マシューにですら明白であった。
「っ、マシュー!?お前どうしたんだ、こんな時間に?」
「ご……」
ごめんなさい、の言葉を作るくちびるが、一瞬でも強ばったのは、気のせいではないと思う。アーサーさん、今、だれを呼ぼうとしたんですか?
けれどこんな時間に自分は居たらおかしいし、夜中にいたずらで起きそうなのは自分よりも兄弟の方だ。わかっている。彼が刹那の判断で兄弟の名を呼んだのは、だれが考えたって、妥当な判断だ。
わかってるけど。
「――ごめんな、さい。急に、……目が覚めてしまったんです」
「……そうか。いや、気にすんな。俺が起こしたのかも知れない」
「え?」
「さっき、帰ったときに――ああ、何を言ってんだ。……マシュー」
彼は、いつもの、気丈で堂々としていて、時に敵愾心を携えて向かってくる輩を完膚無きまでの皮肉で返り討ちに付す、あのつんとした尖りをまったくどこかに忘れてきているようだった。
「はい?」
疲れた顔を、逆光のランプ、あわいオレンジ色に輪郭を溶かしながら、みたこともない表情の彼は、彼は、――笑おうとしていた。
「おいで」