クマさん、あのね
「っ」
気付けば、つま先も鼻先も、全身で駆けだしていた。扉はバンと開かれる。つめたい足先がなんだと言うんだろう。一秒だって早く走りたい。だって、彼が呼んだのは僕なんだ。
ばっ、と椅子に座る彼の膝に飛びつくと、アーサーはマシューを抱き上げて、その膝に乗せた。湿った雨のにおいと、煤のにおい、それから薄くなってしまった香水のにおいが冷たく香った。
「はは。走ると転ぶぞ」
「ごめんなさい」
「まあ、お前なら大丈夫か。アルだったら足下なんて見やしねぇけど」
「……」
「ん?眠くなったか?」
黙って首を横に振るマシューの顔が、アーサーの目にどう映ったのかは分からない。マシューはうつむき加減で、きゅ、と目の前の硬いシャツを握った。
「……そうだな」
なにがそうなんですか?ちがう、――「なにがそうなんだい?」と、言えたらどんなにいいだろう。けれど同時に、それが言えてしまえた自分は、もうアーサーの“マシュー”で無くなってしまうのだろう――訳も分からず泣きそうになったそのとき、アーサーがその腕を背中に回した。
「え?」
「そうだよな……お前らの為にも、頑張らねぇと……」
きゅうう、と背中を抱く腕は力無く、その所為でマシューの涙は引っ込んでしまった。
こんなに頼りない抱擁を貰ったのははじめてだった。
疲れているんだ、と思った。ほんとうにどこまでも、アーサーさんは疲れているんだ。この人は普段こうして人に触れたがるようなひとではない。頭を撫でてくれたこと、手を繋いでくれたこともあるけれど、あれは自分、否、自分たちの思いを満たす為であって、こんな、――彼が触れたいから、それだけで誰かを抱きしめる、などということは、今まで一度もなかった。
疲れているのだということは、つまり、彼が彼なりに甘えたがっていることなのだと。
理解はなくても認識はあった。マシューにとって、複雑すぎる“他人の心”(いつもそばにいる兄弟が単純すぎるのもある)は圧倒的であり、ましてや仮にも自分を育ててくれたひとの弱さの露呈する瞬間に居合わせるだけで、もう何も考えられなかった。
ただ、少し、うれしかった。
(でも、じゃあ、なんだかのどの奥がすうすうするのはどうしてだろう?)
それでも、うれしさに助けられて、マシューはそろそろと腕を伸ばす。アーサーの背中は広く、短い腕は彼をただしく抱きしめることができない。
マシューは、小さな頭で存分に言葉を選び、それに親愛を織り込んで、アーサーに差し出した。
「アーサーさん、もう、眠ったほうがいいと思います」
「ああ、俺もそう思うよ」
でも、どうしても明日までに仕上げなきゃならない仕事があるんだよな、そう言って、今度は少し力を込める腕の中から、肩越しにアーサーの背後を見れば、机の上には大量の紙屑と何色かのインク壷、書き損じ書類の残骸、湯気の消えた紅茶のカップ、それから難しそうな内容の本の山がばらばらと散らばっていた。それに、投げ出された懐中時計も。
「……」
アーサーはいま、仕事を中断している。こんなに掛かっても終わらない仕事を、自分のために。
「……ごっ、ごめんなさい」
「マット?」
「ごめんなさい!」
急にじたばた腕を振り回して離れようとするマシューに、アーサーはぎょっとして腕を緩める。マシューはその隙にさっとアーサーの膝から飛び降りると、全速力でアーサーの部屋から飛び出し、暗い廊下に消えた。あんなに俊敏な動きを見せるマシューを、アーサーは見たことがなかった。
ごめんなさい、ごめんなさい、が木霊する部屋で、アーサーはぽかんとしたまま開きっぱなしの扉を眺める。
「なんか変なこと言ったか……?」
頭を掻きながら立ち上がり、扉を閉めたアーサーが振り向いたとき、机の上では懐中時計が無表情にカチコチを繰り返していた。
「……子どもに気遣われてるのか、俺は」
アーサーは舌打ちと共に、2:41の文字盤に蓋を下ろす。