ワンルーム☆パラダイス
〜白夜叉の宿〜
ある旅の男がいた。方々山を巡っては、珍しい草花を集めることを生業としていた。干して煎じて薬にしたり、鮮やかな色彩の染料に加工したり、半分は己の探究心を満たすためでもあったから、行く先々で商売っ気もなく只同然に分け与えてしまう。それでもこれまでどうにかやってこれたから、これでいいのだと彼は思っている。
その日初めて入ったその山は、ことさら目新しい獲物が多かった。いつもならもう少し用心するところなのに、つい夢中になって深入りしてしまい、いつの間にか足の早い山中の日は落ちて、おまけに冷たい雨までがしとしと降り始めた。
(……。)
今日のところはこのまま動かない方がいいだろうか、雨を避けた木陰で彼が思案に暮れていると、うっそうと茂る木々の奥にぽつりと小さな明かりが見えた。
炭焼き小屋か猟師の仮宿か、ともかく助かったと彼は思った。濡れた草葉を掻き分けて、明かりを目指して歩を進める。辿り着いた山小屋はしんと静まり返っていたが、確かに人の気配があった。
「――ごめん下さい」
涼やかに通る声を張って彼は戸を叩いた。ややあって、扉が開くと、小屋の主と思しき人物が姿を見せた。
「やれやれ、こんな雨の日に迷い人かい」
しわがれ声に応対したのは腰の曲がった白髪の老婆だった。
「えっ、ええ……」
彼は少々驚いた。こんな山奥にたった一人で住んでいるのだろうか、相当な変わり者か、……自分も大概人のことは言えないが。
「すみませんが、よろしければ今夜一晩宿をお借りできませんか」
――大したお礼はできませんけど、背中の行李を降ろして彼は言った。ここにある薬草くらいで……、行李を探る男を遮って老婆が言った。
「そんなモン、ここに住んでりゃ売るほどあるさ」
「……」
老婆を見上げて、彼は睫毛を瞬かせた。――そりゃ確かにそうですね、ひとりで思わず噴き出してしまう。長髪を俯かせてくすくす笑う彼の姿に、伸び放題の白髪を揺らしてやれやれと老婆は息を漏らしたようだった。
囲炉裏の傍に案内されて、鍋で煮えていた粥を薦められる。簡単な食事を済ませると、囲炉裏に薪をくべながら老婆が口を開いた。
「――ところで旅のお方、こんな昔語りを知ってるかい?」
「どんなお話ですか?」
振る舞われた白湯の椀を手に彼は訊ねた。老婆は続けた。
「……昔、とある城に、やたらと糖分ばっか摂ってる甘党の姫様がいたのさ。あんまり甘いモンばっか食ってたせいで、ついには病気になっちまった。それを通りすがりの学者先生に助けられて、昏睡の淵から目覚めた姫はたちまちセンセに一目惚れ、ふたりはめでたく結ばれました……」
「いいお話じゃないですか」
白湯を啜って彼がにこやかに言った。老婆はふっと遠い目をした。
「それがとんだ思い違い、なんせ学者先生は困った放浪癖の持ち主でね、今日はあっちの山こっちの山、一度城を出て行くと、とんと戻って来やしないのさ、置いて行かれた姫様は城でひたすら待ちぼうけ」
「それはお気の毒ですね」
欠けた椀の縁を撫でながら先生が静かに言った。老婆は淡々と昔語りを続けた。
「……それでも最初のうちは、城を空けても二年に一度は戻っていたんだよ、それが三年になり五年になり、やがて十年二十年、とうとう姫の臨終の日にも、先生は戻ってこなかった」
「……」
彼は椀の水面を見つめた。揺れる手元に細波が立った。老婆は言った。
「だけどそのとき、天蓋付きの床の上で姫は思っていたんだよ、――ああ、これでやっと、あの人と離れずずっと一緒にいられる、ことによるとあの人はとっくに向こうで待っているのかもしれないし、たとえそうでなかったとしても、自分が向こうでしばらく待てば、そう長く経たずにあの人も姿を見せるはずだってね」
「――それで」
伏せていた髪を上げて彼が訊ねた。
「ふたりは、向こうでちゃんと会えたんですか」
「……」
老婆は黙って首を振った。彼は小さく息を飲んだ。老婆は再び語り始めた。
「待てど暮らせどあの人はさっぱり姿を現さない。待ち慣れていた姫もさすがに痺れを切らして、ある日こっそり天から下界を覗いて見た」
「……」
今度は彼が無言に老婆を見つめた。ふうっと肩に息を吐いて、老婆は言った。
「そしたらあの人、どこでどうしていたと思う?」
「わかりません」
彼は首を振った。老婆の口の端に薄い笑みが浮かんだ。
「あの人ときたら、自分のいのちがとっくに地を離れたことにも気付かずに、いまだにあちこち、楽しそうに山を巡っていたのさ」
「……」
彼は膝先に椀を置いた。それから真っすぐ老婆を見た。
「それでわざわざ、明かりをつけて待っていてくれたんですね」
「――先生」
白髪を揺らして老婆が言った。……いや、老婆の姿は掻き消えて、そこに居るのは月夜の芒野原を思わせる在りし日の銀髪を取り戻した姫だった。
「もしかして、余計なことをしましたか?」
姫が言った。
「……いいえ、」
先生は静かに笑うと目を上げた。瞬きもせず彼を見据えて、姫は次の言葉を待った。
「迎えに来てくれて助かりました。今日は本当に困っていましたから」
「……先生、」
彼からふと視線を外すように姫が言った、
「向こうにも山はたくさんありますよ」
――それこそ雲を突き抜けてどこまでそびえているのやら、いくら首を反らしても天辺が見えないくらい、
「そうですか」
先生は頷くと姫の手を取った。
「では、今度は二人で行きましょう」
「……」
姫は振り向いた。まるでたったいま、迷子の道から救い出されたのは自分の方であるかのように、そうして少しでも動いたら目尻に溜まった熱い水滴がぜんぶ零れて流れてしまう、だから必死に眉を寄せて、痛いくらいに唇を噛み締めて、――なのに先生ばっかり、どうしてそんなに楽しそうに笑ってるんですか、恨み言も泣き言もそれからいろいろ他にももっと、先生に話したいことはたくさんある。
雨が上がった次の朝、朽ち果てた茅葺小屋の囲炉裏には、昨夜確かに誰かがそこにいたような、まだ暖かな灰が残っていた。
ある旅の男がいた。方々山を巡っては、珍しい草花を集めることを生業としていた。干して煎じて薬にしたり、鮮やかな色彩の染料に加工したり、半分は己の探究心を満たすためでもあったから、行く先々で商売っ気もなく只同然に分け与えてしまう。それでもこれまでどうにかやってこれたから、これでいいのだと彼は思っている。
その日初めて入ったその山は、ことさら目新しい獲物が多かった。いつもならもう少し用心するところなのに、つい夢中になって深入りしてしまい、いつの間にか足の早い山中の日は落ちて、おまけに冷たい雨までがしとしと降り始めた。
(……。)
今日のところはこのまま動かない方がいいだろうか、雨を避けた木陰で彼が思案に暮れていると、うっそうと茂る木々の奥にぽつりと小さな明かりが見えた。
炭焼き小屋か猟師の仮宿か、ともかく助かったと彼は思った。濡れた草葉を掻き分けて、明かりを目指して歩を進める。辿り着いた山小屋はしんと静まり返っていたが、確かに人の気配があった。
「――ごめん下さい」
涼やかに通る声を張って彼は戸を叩いた。ややあって、扉が開くと、小屋の主と思しき人物が姿を見せた。
「やれやれ、こんな雨の日に迷い人かい」
しわがれ声に応対したのは腰の曲がった白髪の老婆だった。
「えっ、ええ……」
彼は少々驚いた。こんな山奥にたった一人で住んでいるのだろうか、相当な変わり者か、……自分も大概人のことは言えないが。
「すみませんが、よろしければ今夜一晩宿をお借りできませんか」
――大したお礼はできませんけど、背中の行李を降ろして彼は言った。ここにある薬草くらいで……、行李を探る男を遮って老婆が言った。
「そんなモン、ここに住んでりゃ売るほどあるさ」
「……」
老婆を見上げて、彼は睫毛を瞬かせた。――そりゃ確かにそうですね、ひとりで思わず噴き出してしまう。長髪を俯かせてくすくす笑う彼の姿に、伸び放題の白髪を揺らしてやれやれと老婆は息を漏らしたようだった。
囲炉裏の傍に案内されて、鍋で煮えていた粥を薦められる。簡単な食事を済ませると、囲炉裏に薪をくべながら老婆が口を開いた。
「――ところで旅のお方、こんな昔語りを知ってるかい?」
「どんなお話ですか?」
振る舞われた白湯の椀を手に彼は訊ねた。老婆は続けた。
「……昔、とある城に、やたらと糖分ばっか摂ってる甘党の姫様がいたのさ。あんまり甘いモンばっか食ってたせいで、ついには病気になっちまった。それを通りすがりの学者先生に助けられて、昏睡の淵から目覚めた姫はたちまちセンセに一目惚れ、ふたりはめでたく結ばれました……」
「いいお話じゃないですか」
白湯を啜って彼がにこやかに言った。老婆はふっと遠い目をした。
「それがとんだ思い違い、なんせ学者先生は困った放浪癖の持ち主でね、今日はあっちの山こっちの山、一度城を出て行くと、とんと戻って来やしないのさ、置いて行かれた姫様は城でひたすら待ちぼうけ」
「それはお気の毒ですね」
欠けた椀の縁を撫でながら先生が静かに言った。老婆は淡々と昔語りを続けた。
「……それでも最初のうちは、城を空けても二年に一度は戻っていたんだよ、それが三年になり五年になり、やがて十年二十年、とうとう姫の臨終の日にも、先生は戻ってこなかった」
「……」
彼は椀の水面を見つめた。揺れる手元に細波が立った。老婆は言った。
「だけどそのとき、天蓋付きの床の上で姫は思っていたんだよ、――ああ、これでやっと、あの人と離れずずっと一緒にいられる、ことによるとあの人はとっくに向こうで待っているのかもしれないし、たとえそうでなかったとしても、自分が向こうでしばらく待てば、そう長く経たずにあの人も姿を見せるはずだってね」
「――それで」
伏せていた髪を上げて彼が訊ねた。
「ふたりは、向こうでちゃんと会えたんですか」
「……」
老婆は黙って首を振った。彼は小さく息を飲んだ。老婆は再び語り始めた。
「待てど暮らせどあの人はさっぱり姿を現さない。待ち慣れていた姫もさすがに痺れを切らして、ある日こっそり天から下界を覗いて見た」
「……」
今度は彼が無言に老婆を見つめた。ふうっと肩に息を吐いて、老婆は言った。
「そしたらあの人、どこでどうしていたと思う?」
「わかりません」
彼は首を振った。老婆の口の端に薄い笑みが浮かんだ。
「あの人ときたら、自分のいのちがとっくに地を離れたことにも気付かずに、いまだにあちこち、楽しそうに山を巡っていたのさ」
「……」
彼は膝先に椀を置いた。それから真っすぐ老婆を見た。
「それでわざわざ、明かりをつけて待っていてくれたんですね」
「――先生」
白髪を揺らして老婆が言った。……いや、老婆の姿は掻き消えて、そこに居るのは月夜の芒野原を思わせる在りし日の銀髪を取り戻した姫だった。
「もしかして、余計なことをしましたか?」
姫が言った。
「……いいえ、」
先生は静かに笑うと目を上げた。瞬きもせず彼を見据えて、姫は次の言葉を待った。
「迎えに来てくれて助かりました。今日は本当に困っていましたから」
「……先生、」
彼からふと視線を外すように姫が言った、
「向こうにも山はたくさんありますよ」
――それこそ雲を突き抜けてどこまでそびえているのやら、いくら首を反らしても天辺が見えないくらい、
「そうですか」
先生は頷くと姫の手を取った。
「では、今度は二人で行きましょう」
「……」
姫は振り向いた。まるでたったいま、迷子の道から救い出されたのは自分の方であるかのように、そうして少しでも動いたら目尻に溜まった熱い水滴がぜんぶ零れて流れてしまう、だから必死に眉を寄せて、痛いくらいに唇を噛み締めて、――なのに先生ばっかり、どうしてそんなに楽しそうに笑ってるんですか、恨み言も泣き言もそれからいろいろ他にももっと、先生に話したいことはたくさんある。
雨が上がった次の朝、朽ち果てた茅葺小屋の囲炉裏には、昨夜確かに誰かがそこにいたような、まだ暖かな灰が残っていた。
作品名:ワンルーム☆パラダイス 作家名:みっふー♪