裏切りの夕焼け
持ち手を強く握って、回す。百里が目を覚ましたように、低く唸る。
唸り始めたら、思い切り右足を踏み込め。
右足のそばにある踏み板のようなものを、思い切り踏み込む。
ぐん、と視界が歪んだ後、百里はとんでもない早さで駆け出した。
落ちたら死ぬ。
林冲の言葉が嘘でなかったことがはっきりと分かる。とんでもない速度で、百里は街を駆け抜けて行く。振動で、肩に空いた穴に痛みが走る。頭の中で、家から見た方角と距離を反芻しながら鉄橋を目指す。
狭い路地を抜け、広い通りに出た。鉄の塊のようなものが、やはりあり得ない速度で行き交っている。しかし、怯んではいられない。鉄の塊を躱しながら、西を目指す。真正面から迫ってきた鉄の塊が、悲鳴のような音を上げながらよけていく。
鉄橋に入る。
「公孫勝っ」
声がした。振り返るほど余裕はない。しかし、声で判断するなら恐らく劉唐だろう。
「おま、それ、乗れるのか?」
「集中が途切れる、余計に話しかけてくるな」
怒鳴るように言う。
「この先に、護送車がいる。鉄製の、大きな箱を背負った車だ。それの中に、林冲がいる。だが、跳ね橋を渡られたらもう間に合わない。だから、それまでに見つけ出して取り戻せ」
「分かった」
もうすぐ鉄橋を渡り終える。跳ね橋は、もう見えていた。すると、跳ね橋のたもとで赤い光が回り始めた。
「くそっ、遅かったか?」
「何だ、あれは?」
「跳ね橋が上がるんだ。くそ、間に合わなかった」
跳ね橋がじりじりと上がり始める。並走していた劉唐の乗っている鉄の塊が減速していく。
「おい、公孫勝、止まれ。死にたいのか」
「止まり方は知らん」
「なに?」
「止まり方は習ってない」
「それで乗ったのか、お前。馬鹿か」
跳ね橋が三分の一ほど上がっている。止まらなければ。
「ブレーキだ、ブレーキをかけろ」
「ブレーキってなんのことだ、何をどうするんだ」
「くそが、握れ」
公孫勝は、持ち手を思いっきり握って回した。
止まるどころか、百里は一層の唸りを上げて加速した。
「それじゃねぇえ」
劉唐の声を置き去りに、百里は跳ね橋を駆け上がっていく。
既に半分近く上がっている跳ね橋を百里は駆け上がり、そして飛んだ。
眼下には、滔滔と流れる大河が広がっている。死ぬ。思わず手を放しそうになる。
手は絶対に放すな。
林冲の声が、脳裏に蘇る。持ち手を、しっかりと握り直した。
百里は大河の遥か高みを飛び越え、反対側の跳ね橋に着地した。
途轍もない衝撃で、肩の傷から血が噴き出す。急斜面を百里が駆け下りてゆく。目の前に、鉄製の大きな箱を背負った鉄の塊がいた。その中から、人間が目を剥いてこちらを見ている。
あれが背負う箱の中に、林冲がいる。頭に血が上っていくのが分かる。
「そいつを、返せ」
腹の底から叫んだ。途端、百里が跳ねた。足元に瓦礫があったのに気が付かず、それで跳ね上がったらしい。
箱の外壁を切り裂いて、百里が箱の中に飛び込む。ものすごい音をたてながら、百里が箱の中で滑り、後ろ向きに箱の奥で停まった。
「公孫勝?」
声をかけられて、振り返る。殴られて痣を作り、鼻血や切り傷の血で汚れた顔で林冲がこちらを見つめてきている。
「入雲竜公孫勝着到。助けに来たぞ、林冲」
腰から剣を抜いて、林冲の足の縄を切ってやる。
「撃ち殺せ」
拳銃を構える音がした。
既に、一度相手した武器だった。武器の性能に頼っただけの奴に、負ける気はない。
百里の頭に当たるであろう部分を蹴って高く跳ぶ。銃口がこちらを向く瞬間に、箱の屋根を蹴って着地する。
一瞬にして懐に入られた男たちは呆気に取られて動きが止まった。そいつら全員を切り倒すのは、一瞬だった。
「来い、公孫勝」
百里の嘶きが聞こえた。軽く跳躍する。空中で、林冲に抱きとめられた。
林冲は手枷をはめられたまま、操縦の持ち手を放して公孫勝を抱き止めたのだ。持ち手に肘を突くように前屈みの姿勢で、林冲は駆け去っていく。
「おい、公孫勝。手錠を切れ」
剣で何度か叩きつけたり、鋸を引くようにすると、手枷の鎖は切れた。
「よし」
林冲は普通の姿勢に戻り、百里を更に唸らせた。
「まさか、お前が助けにくるとは思わなかった」
林冲が、唸るように言った。
「意外だっただろう?」
「お前がコンテナを百里で突き破って入って来たときは、夢だと思った」
自分でも、あんなことが出来るとは思っていなかった。
「本当に、助かった。ありがとう、公孫勝」
「お前に礼を言われると、なかなか気分がいいな」
「そうか」
林冲は低く笑う。それに呼応する様に、百里も低い嘶きを上げた。
何時の間にか、雨は止んでいた。
金と紫の、見事な夕焼けが広がっている。
「なあ、公孫勝。俺たちの、仲間にならないか」
林冲が、言った。
「帰る手段も、見つからないんだろう。だったら、まだ見ぬ未来で、俺と一緒に生きてくれないか」
「お前は、私たちの結末を知っているんだったな」
林冲は答えない。それが、全ての答えだった。
「そうだな。お前の知る結末に私が帰ることは、きっと無為に死んでいくことと同じなのだろうな」
それでも。
たとえ未来から見れば、決まってしまっている結果だとしても。
「私にとっては、無意味ではない夢なんだ。無意味ではない明日なんだ」
林冲の頬を撫でる。
林冲は百里の速度を落として、路肩に停まった。
「無意味ではない人が、あちらにいるんだ」
「公孫勝、共には生きられないのか?」
「元々、お前とは違う時代に生まれたのだ」
「なんだか、裏切られた気分だ」
「恨んでくれて、構わない」
林冲と手を重ねる。
「この時代の、私を見つけ出してやってくれ。きっと、辛い過去を背負っているから。見つけ出したら、どうか」
林冲の顔を掬い上げる。
遠く、雷鳴が轟く。
「共に生きてくれ、林冲」
辺りを、蒼い光が包み込んだ。
全てが消え去っていく。
消えていく最後の瞬間、見えたのは泣きそうな林冲の笑い顔だった。
「公孫勝殿っ」
目を開くと、涙でぐちゃぐちゃの劉唐の顔と、真っ直ぐに見つめてくる林冲の顔だった。
「劉唐?」
「よかった、生きてた、よかった、よかった」
「全く、余計な手間をかかせやがって」
「何があったんだ?」
「公孫勝殿のすぐ近くに雷が落ちて、気絶していらっしゃったんです。それで、林冲さんが療養所まで運んで下さって。公孫勝殿、一日半も目が覚めなくて」
「そのまま雷に当たって死ねばよかったのにな」
「こうは言ってますけど、林冲さんは運んで下さった昨日の昼から心配して何度も来て下さったんですよ」
劉唐がそう言うと、林冲は劉唐の頭を殴った。頭を抑えながらも、劉唐は嬉しさのあまりか泣き笑いを止めない。
「そうか。心配かけて、悪かったな、劉唐」
完全に無視された林冲はつまらなさそうに鼻を鳴らしている。
「所で、公孫勝殿、酷くうなされていらっしゃいましたけど。何か、夢でも見られていたのですか?」
「夢?」
思い出そうとするが、靄がかかったように思い出せない。
「さあな、覚えていない」
作品名:裏切りの夕焼け 作家名:龍吉@プロフご一読下さい