toccata
レンの場合(3)
ジャケットの内ポケットに入っている薄めの名刺入れを開ける。
名刺のほかに、そこには小さなカレンダーを入れていた。
赤いペンで、バツ印を一つ入れる。
(後二日か…)
物事が進展しないままバツ印が増えているのが分かる。
レディとの至福の創作時間は終わりを告げそうだと思った。
過日他のチームはそれなりに進んでいて、事務所からの進捗メールを受け取る度に、心が少し焦るのが分かる。
深呼吸して考え直すも、あいつを前にするとどうしても妥協点を見いだせない。
譲れない部分だけでなく、それ以外についてもどうしてもこちらから折れると言う事が難しい状況だ。
(どちらも、我儘で自己主張が強いと面倒だね…)
柄にもなく諦めの籠った小さく溜息をつく。
学園時代もだったが、あいつが加わって何かをする…と言う形になると必ずもめた。
レディと二人だけならば、互いの愛の交差する場所を探せばいいだけだったが、あいつがいるとそうはいかない。
(お互いに楽曲以外に”譲れないもの”があるからね)
名刺入れをポケットにしまい、とんとんと俺はそこにかかっているかもしれない呪いが解けるよう叩く。
上手くいくように…と祈る気持ちを込めて。
俺達が今いる部屋は”作業部屋”だ。
事務所からあてがわれた空間でもある。
そこはホテルの一室で、日常とはかけ離れている気はする。
俺が過去いた部屋、学園寮の部屋も俺からすれば”日常”からかけ離れていた気はするが。
慣れとは怖いもの、なのか。
それともあの空間こそ自分の求めていたものなのか。
たった一年しか過ごしていないのに、あの部屋が自分がずっと過ごしてきた部屋のような、懐かしさで構成された部屋のような気がしていた。
感傷に浸る気はないが、周囲を見渡して”作業部屋”として存在しているこの場所が何だか居心地が悪い…そう言う風に感じている。
「ねぇ、レディ。今日は聖川のスケジュールはどうなっているんだっけ?」
作業部屋の中でも一番広い場所に大きなテーブルがある。
そこに座ってシンセとPCを持ちこんで作業している愛しい人に俺は声をかけた。
返事はない。
レディは、昨日まで三人で話し合っていた内容の纏めを見ながら必死に鍵盤に向かい、真白な楽譜に鉛筆を走らせている。
(本当に…)
抱きしめたい程にキラキラと輝いている、と思った。
このまま背中から腕を回して、耳元で甘い言葉を囁いて驚かせてあげようか?、と悪戯心が湧きあがってくる。
レディは距離を近づけると、未だに顔を真っ赤にして身体をこわばらせる。
はたから見たら、俺が怖い人、何だろうけれど。
違う、レディは未だに”男性に慣れていない”のだ。
名前、容姿に靡いて傍にやってきた女性は随分いたけれど、かのレディ達は随分と百戦錬磨が多かった気がする。
それが悪いとは言わない。
綺麗な華はこの世に必要不可欠なものだ。
なければなんと色の少ない寂しい世界かと思う。
華やかな方が良い、俺自身の心を埋めてくれるだけの”華”を…。
レディに出逢って、レディの創る楽曲に出逢って。
俺は変わったと思った。
変わりたいと思った。
彼女の楽曲を歌うにふさわしいのは俺だと、証明する為には「変わる」事が必要だと、そう思った。
別に誰かに求められてそうなった訳ではないからか、俺の家族、神宮寺の親族が驚いていた。
放蕩息子が豆腐の角に頭をぶつけて更に頭が悪くなった、と。
ただ、兄だけが俺の今の状態を…喜んでいると風の噂で聞いた。
「噂」だから全て信じる事は出来ない…それでも、俺の歌は「届くのだ」と気が付かされた。
今までの俺も俺で、これからの俺も俺だと、今作っている歌で世界に伝えたい、そんな野望が胸の内にある。
最近はドラマやグラビアが多くて、中々レディの創る楽曲と直接向き合う事が出来なかった。
心が求めている、枯渇しているんだ、レディの音楽の世界を。
俺がそんな事を思っているとは露知らず。
レディは、手を止めずに作業をしている。
(それにしても…)
おかしい、と俺は思った。
もっと言えば、「レディらしくない」「変だ」と言う思いが胸の奥から沸々と湧いてくるのが分かる。
距離を縮めても気が付かないのは仕方がない。
意外と鈍感な所もあるのだから。
でも、レディの表情が…少し暗い。
もっと言えば、白い肌が更に白さを増し、何故か頬が桃色に染まっている。
チークの色を変えたとは言っていなかったし、レディはあまり濃い色を好まない事を知っている。
朝ラウンジで逢った時には、化粧の香りを漂わせてはいなかった。
一歩近づく。
レディの香りはするが、決して人工物の香りではない。
(化粧は、していない…?)
はたと気が付いた。
化粧以外に頬が染まるだ、顔色が白くなるだはあるじゃないかと。
「ねぇ、レディ!」
手を握る。
(…熱い…)
レディは俺に手を握られても、何時ものようにオーバーリアクションを取ることなく何拍か間を置いて俺の方へ顔を向けた。
神宮寺さん…、と俺を呼ぶ。
表情をよく見ると、目は少しトロンとしている。
視点は上手く定まっていないようにも見える。
眠くて瞼が重い、と言うよりそこまでしか開けられない状態の様だった。
「御免ね、レディ」
俺は椅子を引き、右回転させ対面できるようにする。
彼女の額に、俺の額を付けてみる。
(…熱い…)
これは発熱だ、と思った。
体調を崩しているのだ、と分かった。
「ねぇ、レディ。今ちょっとだるいでしょ?身体、熱くない?」
優しく問いかける。
少しでも焦った声になったら、糾弾しているように感じられるのではないか、そんな風な恐怖心が湧いたからだ。
思考回路が上手く働いていないのか、レディは又何拍か間を置いて、「大丈夫です」とにこり頬笑み楽譜に向かおうと机に身体を向けた。
「駄目だよレディ、しばらく休んで」
今度は大きな声で彼女の行動を制限する。
途端、駄目です…と低めの声色で、首を横に強く振って拒否してきた。
「時間はありません。きちんと作らなきゃ、お二人に迷惑がかかります」
責任感の強さは人一倍だと学園時代から知っている。
頑張り屋なのも知っている。
そして、頑固な事なのも、重々承知だ。
だから俺や聖川は、惹かれているのだと思う。
何に対しても一生懸命で、決して途中で投げたりしない。
どんなに大変な状況でも乗り越えられるよう努力をする。
当たり前のことだが、出来ない人も多い事だ。
あいつはともかく、俺は自分で言うのもなんだが、”出来る範囲”を最低限度の力でやっていた。
結果は”ある程度”付けばいい。
それ以上を求めていない、諦めに近い思いが身体を支配していた。
そんな自分を打ち破ったのが、彼女の存在だった。
彼女の創りだす音楽の力だった。
体の奥から湧き上がる熱い思いを止める事が出来なかった。
それは同時に”想い”にもなっていた。
音楽だけでなく、何時しか”彼女自身”を追うそな自分に気が付いた。
幾つも恋を重ねてきたつもりだし、大勢の人に愛の言葉を囁いてきたけれど、それらを思いだそうにも思い出せない。