tremolo
おまけ視点・続/那月と翔の場合
ホテルの前には、事務所が予約したと言うタクシーがいなかった。
渋滞で遅れているらしい。
先ほど携帯に連絡が入った。
長身を縮めて、那月は残念そうな声を出す。
「早くハルちゃんの歌を歌いたいです…」
さっきからそれしか言わない那月に対し、翔は黙々と何かを読んでいた。
「しゃーねぇだろ、渋滞なんだから。待ってろって言われてんだし」
しょんぼりした那月を突き放すように、翔は答える。
「だったら、別のタクシーで良いじゃないですか!僕たちだけで前入りしましょうよ!」
がばりと翔の目の前の視界を遮って顔を近づけ那月が訴えかけてきた。
曲が出来て嬉しいのは分かるが、これはまた面倒なことになりそうだと翔は言い返す。
「今日は、初めて行くスタジオだし俺達だけじゃなくてマネージャーも来て挨拶するから駄・目・だ!」
「えー!」
「えー!じゃない!…お前、いい加減に少しは学習しろよ…俺より年上だろ?」
「年齢関係ないですよー!早く行きましょうよー!」
「だーーー!もうっ!!関係有るっつーの!常識位その分詰め込んどけ!
つか、前入りってライブとかで前日その会場に入っている事じゃねぇの!?」
最後の突っ込み部分に対して那月は、キョトンとした表情を浮かべ、うーん…と一人で考え込み手を打って合点が言ったような雰囲気を見せた。
その姿を見て翔は深く溜息をつく。
前入り、と言う単語の意味や使い方が翔自体もがひょっとしたら間違えているかもしれない、と言うそう言う判断はしなかったようだ。
(そういや…前、今回みたいにデュエット作った時は…あれはあれで大変だったな…)
---主にレコーディングが。
楽しかったが、レコーディング中に喋り出すわそれがそのままOKテイクになるわ。
前代未聞な形の楽曲になっていた。
「型破り」と憧れの日向龍也に笑われながら聞かれた事を思い出す。
(ま、曲を創った七海も…喜んでいたから、いいか…)
翔にとっても、結局は曲を作ってくれる春歌が幸せならば自分も幸せなのだ。
「でも、一寸吃驚しましたね」
「何が?」
「音也君とすれ違った事ですよ」
「ん?あぁ…確かに」
「彼の作業…仮のレコーディングまで完全に終わっていて、今トキヤ君がコーラス部分を作ってる…って話ですけれど。
何でまた戻ってきたんでしょうか…」
ホテルのロビーでチェックアウトの作業をしていた時、偶然二人は音也と出逢っていた。
彼の手には一週目と似たような荷物の量があり、ギターも持っていた。
何故いるのかと質問をすると、セシルの手伝いをする、とにこやかに微笑みながら彼は答えた。
確かにセシルのあの異常なまでの「一人では生活できません」加減は目を覆いたくなる物であった。
自分たちの週なのにセシルが様々な事をしでかすので、その相手を春歌があれこれやってしまう。
お陰で、那月が作業中何度かイライラし不貞腐れてしまった。
それをあやすのが翔にとって大仕事になる事もあったのだ。
翔はその時つくづく感じていた、”こう言う時”に砂月がいないのは良かった…、と。
逢えなくなるのはそれはそれで寂しい気がするが、あの暴力的な砂月人格が出てくるとあの状況は収拾がつかなくなる。
別人格で有っても、那月から生まれた人格であることには変わりない。
しかも「音楽の天才」と来たものだ。
そんな”彼”が春歌の曲を気にいらない訳がない。
砂月と一緒になった、と以前春歌は言っていた。
だから、那月は砂月であり、砂月は那月なのだ。
折角彼女を独占できる時間。
それに対して茶々を入れられた事が、彼の機嫌を損ねても仕方がない気はする。
(確かに俺も、少しカチンと来たっけな…)
セシルの生まれや身分を知っていれば空気が読めないのは何となく理解はできるが、もう少し春歌への独占欲は上手く隠して欲しい気はした。
(…俺だって、出来ればやりたいさ…)
一緒に曲を作っている時間を思い出す。
隣に那月はいた事もあったが、自分の作業中にはあまり騒いだりはしなかった。
ただ自分の寝室でヴィオラを奏で、レッスン台本や仕事の台本をチェックし、時々作業机に来て近くで本や楽譜を読んでいた。
その場の空気を全身で楽しんでいる、そんな感じだったのだ。
だから余計にセシルの行動が、那月にとってはきつかったのかもしれない。
学園生時代とは違い、春歌とは一緒にいられる時間は少しずつ減っているのが現実だ。
だから、今回は特に目一杯一緒にいたかったのだろう…。
(那月は分かりやすいなぁ…春歌への気持ち…)
一寸羨ましい、と感じている。
自分はどこかにストッパーをかけている…気がしている。
那月くらい、「あなたの創る音楽も、あなたも大好きです」と開けっぴろげに、言葉にして直接言えたらどれだけ気持ちが楽になるのか。
そう感じている。
性格による差だから仕方がない、で済ませるのも一寸違う気がする。
ポリシーによる違い…でもない気はする。
一体何なのか、それがまだよくわからない。
ふと周囲を見ると、那月の姿が見当たらない。
「え?」
翔ちゃーん、と遠くで呼ぶ声が聞こえる。
声のする方向を見ると、那月がこちらに向けて大きく手を振っている。
言った傍からマネージャーが乗っていないタクシーを止めていた。
「あんにゃろ!」
走って那月の所へ辿り着き、怒る。
今度はしゅんと小さくならず、こう言いきった。
「臨機応変ですよ。兎に角”時間に間に合わないかもしれない”訳ですし。
事務所への連絡はタクシー内で、後ですればいいじゃないですか」
あっけに取られる翔。
そう言う機転を利かせたのかと。
那月の欲望へ対するアンテナの鋭さは流石だと、翔は感心してしまった。
間に合わないかもしれない、という仮定を理由づけとして作り出した。
ひょっとしたら事務所がスタジオ側に既に「渋滞を理由に到着が遅れる可能性」を伝えている事もあるだろう。
だが、「待ってろ」とは言われたがこちら側にそう言う対応を取っている連絡がないと言う事は、「状況が見えないから、遅刻は厳禁を守った」と言い訳る事が可能だと言う事。
事務所命令を破る事になるが、「待たせる事が本当に良い事なのか」「自分たちだけが先に行っても時間通りならば問題はないのではないか」と言った屁理屈を言えばいい。
翔は肩にかけていたリュックに視線を投げる。
仮レコーディング用の音源は昨日焼いたCDとバックアップ用のUSBメモリにある。
スマートフォンの中にも、音源は入っている。
深く考えるの止めた。
手に持っていた小さなメモをポケットに仕舞い込み、深呼吸。
「よーし!これからレコーディングで大暴れしてやろうぜ!!」
「はいっ」
二人はタクシーの運転手に行き先を告げ、乗り込んだ。
車内でイヤホンを分け合い、那月が書き落とした楽譜を確認しながらスタジオを目指す。