tremolo
小説で目にする表現を私は今体感している。
(これが早鐘…って、冷静になっている場合じゃないわ!)
妙な部分で冷静になってしまった自分に喝を入れて、勇気を振り絞り声を出す。
「あ、あの…セ…」
名前を呼ぼうとした時、こつん、とおでこに何か当たった。
「…え?」
何が起こったのか一瞬、分からなかった。
恐る恐る目を開けると、やっぱり視界いっぱいにセシルさんのとても綺麗な顔がある。
(うわわあぁぁっ!)
声にならない叫びが喉を通り抜けて行った。
体の温度が一気にぐん!、と上がった感じもした。
「ネツ…、多分ナイ、ダイジョウブ」
「へ?」
大丈夫だともう一度告げて、セシルさんは私の額に唇を当て、少し距離を広げてくれた。
「顔、真っ赤だったカラ。ネツ、あるのかもしれナイって…心配シタ」
セシルさんはどうやら、私の顔が真っ赤になっているのが「熱があるせいだ」と思いこんだらしい。
「…ご、ごめんなさい」
つい謝ってしまう。
確かに、急に顔を赤くしたら「何あったのかもしれない!」と思われても仕方がないか、と私は反省した。
「いえ、気にしないで、ダイジョウブ。ハルカ、ずっと曲を作っていて大変ソウ。カラダ、本当にダイジョウブ?」
「ん、大丈夫!私元気ですよ!」
質問された私は力瘤を作ってアピールしようと立ち上がった瞬間、
(あっ)
体勢を崩してしまい、倒れそうになる…ふらっと重力に任せて身体が下に落ちて行くのがスローモーションで確認できる。
「ハルカ!」
ぐいっと手を引っ張られて、私は勢いよくセシルさんの胸に飛び込んでしまった。
ぎゅっと両腕に力が入っていくのが分かる。
(セシルさんも男の人なんだ…)
何となくそう思ってしまった。
トモちゃんにも抱きしめられた事はあって。
とてもふわふわ柔らかい感じがしていた。
セシルさんは少しごつごつしたような、細い身体ではあるけれど確り筋肉のある身体つき。
そして、香りも違った。
トモちゃんを包んでいる香りはとても華やかなだったのを記憶している。
セシルさんは、確かに少し香水を遣っているのか優しい香りが鼻をくすぐった。
でも、トモちゃんの華やかさとは違う。
良く分らないけれど、でも”ドキドキ”が止まらない。
「アブナイ…気をつけて下サイ…」
「…ご、ごめんなさい…」
心配と叱咤の入った声色が顔の近くで響く。
セシルさんの胸が共鳴で響いているのだ。
また、ぎゅっと力が強く入ってきた。
「あ、あの…」
「もう少し、このままで、イイデスカ?」
甘えるような声でセシルさんは私に囁く。
融けてしまいそうな感覚になって、私はどう答えたか覚えていない。
結局なされるがまま、私はセシルさんに抱き締められていた。
その日の夜。
私たちは、外へ買い物に出かけた。
三週目はホテルでの食事が多く、気分を変えたかったのだ。
そんなに料理が自慢できるほど得意!ではないのだけれど、でもやっぱり二人には感謝もこめて創りたかった。
セシルさんがキラキラした表情で色々なものへ関心を向けている。
先行するセシルさんの後ろで、私の隣には一十木君がいて歩幅を合わせながら歩いてくれていた。
買った食材も、一十木君とセシルさんが持ってくれて私は肩から掛けたバックのみだった。
(悪いことしてるなぁ私…)
出来る事なのに、二人に甘えてしまっている…そんな反省。
「七海、…あのさ、今日は何作るの?」
「今日は皆さんあまり動いてなかったので、少しヘルシーなものにしようかな、と思って、野菜スープを考えてます」
「ふーん…そ…そうなんだ…」
一十木君は、自分の持っている買い物袋の中身をのぞきこんで不思議そうな顔をしている。
何がそんなに気になるのだろう、と思った。
嫌いなものでもあったのかと思って買った食材の中についての好き嫌いを聞いてみたが、「食材の中にはない」と一蹴されてしまう。
何か変だな、と感じている。
(何か…あったのかな…)
ちらりと視線を一十木君にやってみる。
顔色は…そんなに悪くない。
ただ、気になるのは表情が余り明るくないと言う事だ。
夕方前までは元気だったのに…それがなくなった気がする。
(…何か、一十木君らしくない…かな)
一十木君と言えば、「元気」とか「明るい」とか、ポジティブなイメージが強い。
何があっても前を向いて進んでいく。
私から見たら本当に眩しい存在だ。
部屋に戻って料理を作って、三人で食事をしていても、一十木君の様子は変わらなかった。
終始ぼーっとしていて、視点が定まっていない印象を受ける。
話しかけるとワンテンポ遅れて返事が返ってきて、時々話がかみ合わない。
「オトヤ…疲れていマスカ?」
「…え?う、ううん!大丈夫、平気平気!」
「本当ですか?体調とか、崩されてるんじゃ…」
「ホント!大丈夫だってっほら!」
ブンブンと両肩を回して元気度をアピールする。
持っているスプーンがぐるぐる一緒に回ってセシルさんの近くを通る。
「オトヤ、行儀が悪すぎマス!食事の時は暴れないでくだサイ」
セシルさんが一十木君の行動を諌める。
言われた側はあぁごめんなさい、としゅんとなって身を縮めてしまう。
普段だったら微笑ましい風景に見えるのかもしれないけれど、今日は何か違うように見えていた。
夕食の片付けをし終え、部屋に戻って全員での楽曲の詰めを行う。
途中で何度も手が止まって、溜め息が出てしまう。
私は一十木君の少し影が落ちたような表情が気になって仕方がなかった。
あの表情が頭に焼き付いて離れてくれない。
「どうしたんだろう…」
また一つ溜め息をついて、考えてみる。
やはり答えは出てくれない。
時計の針の音だけが部屋に響く。
ぺチぺ地と量頬を自分で叩く。
このままじゃないけないと思い、体調が悪そうだったとメールで事務所に報告後でする事にして、今は一十木君の事はまず置いておくことにした。
「ちょっと息抜きしようかな…」
私は椅子から立ち上がり、珈琲を入れる為にポットのある台へ向かう。
瞬間、ぐらっと世界が歪んだ。
(あれ?)
慌てて、椅子に手をかける。
完全に倒れるまでには至らなかったが、膝をついて転ぶギリギリの状態だった。
深呼吸してゆっくり立ち上がる。
その時分かる、唯の立ちくらみではなく、まだぐらりと小さく世界が歪む事を。
「…これは…」
ひょっとしたらまずいかもしれない、ととっさに判断した。
(嘘でしょ?)
まだ時間は残っているのに。
何て情けない体力だろう、と自分に喝を入れる。
偶々持っていた市販の風邪薬を慌てて飲む。
食後…ではないけれど、でもこれは緊急事態だし諦めよう。
楽曲の残りはベットに持ち込んで…あわよくば夢の中で良い音のつながりが生まれますように、と祈って私は枕に頭をつけた。
(明日までに回復しなくちゃっ)
寝る事が大切なのだ、何事も。
悩み解決にも、体調の回復にも。
(一十木君も、早く元気になりますように…)
私はそう願いながら、静かに眠りに落ちて行った。