tremolo
春歌の場合〜二週目
「ハルちゃん、僕の事は名前で読んで下さいよぉ」
「え?」
「僕、名前で呼んでくれないと、お話ししませんよぉ」
「ええ!?」
よろしくお願いします、と頭を下げて二週目のスタートを伝えた時。
行き成りの四ノ宮さんの抱きつき攻撃と甘えた声に、部屋に入った瞬間私は驚きで言葉を上手く発する事が出来なかった。
翔君が、離せ〜!、と大きな声を出しながら引き離してくれたお陰で何とか…何とかなった。
(心臓の音が、ドキドキが止まらない…)
少しずつ相手に聞こえない位には収まった…気がする。
本当は聞こえていないんだろうけれど、あんなに近い距離だと、心臓ごと持って行かれそうな気がしてならなかった。
「那月!あんまし我儘言ってると、七海も書けるものも書けなくなるだろうが!」
「ええ!?それは困ります!僕たち、きちんと考えていたんですから。ハルちゃんと歌、創りたいです!」
四ノ宮さんや翔君は既に色々と考えてくれていた。
一十木君と一ノ瀬さんのがぎりぎりに仕上がった為、まだ何も考えられてなかった…とビクビクしていた。
どうしたらいいだろう、と迷いもあった。
「まずお前には、夜しっかり休んで貰いたいしな」
夕食の席で翔君がそう言っていた。
翔君が私の事を気遣ってくれていたみたい。
甘えちゃいけないと分かっているけれどそれでも、二人の心遣いが嬉しかった。
基本夜は確り寝て欲しい、と二人は言ってくれた。
余程の事がない限り、夜の作業はなるべくしない。
打ち合わせ、創るのは昼から夕方の時間に。
「目を閉じて、お星様の時間は確りお星様の歌を聴いて下さい」
四ノ宮さんは独特の表現で告げてきた。
一日目は、二人からの要望をざっくりと聞いた。
二日目からはじゃんけんで順番を決めた結果、翔君のソロ、終われば四ノ宮さん。
残った日数で、デュエット楽曲を。
流れは一週目と同じだけれど、兎に角「既に二人からの要望が具体的」だったのがとても助かる気がしている。
二人のテーマはどちらも「初めて」だった。
その始めて後に出逢った二人の会話的なものがデュエット楽曲。
「俺たちのヴァイオリン、ヴィオラでのデュエット…って言うのはどうかなって」
「折角クラシックもやってましたし、クラシカルポップス、と言えばいいんでしょうか」
「でさ、メヌエット、って楽曲知ってるよな。これ一杯種類あってさ」
「一杯種類がある?」
クラシックには明るくないから少し困った顔をしていると、翔君と四ノ宮さんはそれぞれ楽器を持ってきて、
「これが、ト長調 BWV.Anh.114」「それで、これがト長調 BWV.Anh.116」「んでもって、これがイ短調 BWV.Anh.120」
「えっと、ニ短調 BWV.Anh.132 っていうのもありますよねぇ」「そう言えば、ト短調 BWV.Anh.115もあるだろ」
と、どんどん弾いていく。
本当に凄かった。
同じタイトルでもこんなに違う。
そして、翔君が告げてくる。
「この曲も、俺ら二人違うのをやってるんだぜ、那月はヴィオラの前はヴァイオリンだったし」
目がきらきら輝いていた。
「”初めて”のメヌエットが違う、って面白くないですか?」
「同じ弦楽器なのになー」
「ねー」
顔を見合わせてにこりと笑う四ノ宮さんと翔君の二人。
見ていて、紡ぎだされた音楽で心が幸せな気分になっていたからかもしれない。
あたたかく、微笑ましく思えた。
(それにしても…)
荷物を再度広げながら思う。
四ノ宮さんには悪い事をした気がしている。
「ええ〜?ハルちゃんと一緒の部屋じゃないんですか?」
悲しそうな顔をしていた。
本当は、四ノ宮さんと翔君がいる部屋の中にあるもう一つの部屋が私の寝室を兼ねた作業部屋になるはず…だったんだけど…。
(どうして、一十木君や一ノ瀬さんは事務所にかけ合ったのかしら…)
一週目、二日目に日向先生…じゃなかった、日向さんから連絡があったのだ。
「え?どう言う事ですか?」
「二人からの直訴でなぁ。荷物をほどいた所悪いが、同フロアの別の部屋で寝てくれないか」
「あ、は、はい…でも…どうしてですか?」
「まぁ…分からないでもないんだがな二人の言いたい事は。
こちらもすっかり忘れていた事だ。
とりあえず、夜は徹夜しない限りなるべく別の部屋の方で寝てくれ」
「わ、分かりました…」
何か悪い事でもしたのかしら、と不安が首をもたげてくる。
思い出してみれば、初日の夜も二人の様子がおかしかった。
理由は分からないがとても慌てていたように思える。
(何故かしら…)
幾ら考えても分からない。
時計を見たら、既に23時を回っていた。
翔君からは、”次の日になる前に寝ろ”と伝えられている。
気を張っているからか、余り疲れは感じないが、布団に入るとその睡魔の引力の強さを感じる。
(気持ちいい…)
ベッドに身体を預けていると、そのまま夢の世界へ連れて行かれそうだった。
(行けない、明日の準備と…シャワー!)
がばりと置きあがる。
気合を入れ直して、明日の為の準備を始めた。
翌朝。
廊下で、一十木君と一ノ瀬さんとばったり逢った。
「あ、七海、おはよう!」
「おはようございます」
おはようございます、と朝の挨拶を交わして二人をよく見ると纏められた荷物を持っていた。
「お帰りになるんですか?」
私が聴くと一十木君が、うん、と返事をした。
「楽曲作り終わったからね。これから練習して、それで…」
次する行動が出てこない一十木君は一ノ瀬さんに助け船を求める視線を送る。
深く溜息をついて一ノ瀬さんが説明してくれた。
「練習後、仮レコーディングします。
状況によっては即レコーディングになる可能性もあります」
そうだった!と一十木君と手を打って、
「その時は、七海も聴きに来てくれるよね!?」
一歩進んで私に近づき質問してきた。
彼は何時も距離が短い。
心の距離までも一気に縮める勢いだ。
「あ、あの…」
私がほほを赤らめていると一ノ瀬さんが、一十木君の腕を引く。
距離が少し離れた。
「全く…音也…彼女が困っているでしょう。
レコーディングの件については、追って事務所から連絡があると思います。
それまで待って下さい」
「は、はい」
「私もあなたと創った歌は、あなたと最後まで創り上げたい。
歌っている姿、声を聴いて欲しい」
一ノ瀬さんがふっ、と優しく笑ってくれた。
私は顔が更に赤くなってしまう。
一ノ瀬さんの後ろでは、トキヤずるい!、俺も俺も!、と…一十木君が言っていた…気がする。
二人と別れると、直ぐまた別の人と出逢った。
キョロキョロして、落ち着きがない男性がいたのだ。
「おはようございます、セシルさん」
私の挨拶に、セシルさんは即振り返った。
褐色の肌。
すらっと伸びた身長に、長い指。
そして、
(優しい瞳…。)
柔らかい風を纏っているセシルさんは、本当に一般人とは違うたたずまいだと思う。
「あ、おはようございます、my princess」
にこり微笑み返して、とたとたと私に近づいてきた。
「どうかされたんですか?」
「え、えっと…実は…」