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lotus

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5.繁茂




「少し、遅くなったか......」
 太陽は既に傾いている。いつもなら、とっくの昔に戻っていた時間だったが、この日はちょっとしたアクシデントにより、訓練場からなかなか私は戻ることができなかった。くだらない諍いに居合わせたことから、その場を治めねばならなくなったし、なによりも怪我をした者を救護せねばならなかった。そのため、予想以上に時間を費やしてしまった。
 通常、私はシャカを眠らせたあとは、必ず目覚める時間には傍にいるようにしていた。私が片時も離れない、というわけではなかったが、あの子を長い間、一人にはさせないようにしていた。どうしても私が傍に居られない場合は誰かに頼み、傍に付いて貰うようにしていたのだ。
 だが、今日に限って誰も傍につけていなかった。とんだ不手際である。厭な予感がして、駆け抜けるように自宮へと戻る。私的空間へと滑り込み、シャカを呼んだ。むろん返事などはない。今もって、あの子は口をきいたりはしなかったから。「おはよう」も「おやすみ」の挨拶も一方的に私が繰り返すだけだった。
「シャカ、―――シャカ!?」
 当然いるべき場所のはずの彼のベッドの上は、もぬけの殻だった。触れてみても、冷たい感触。早くに目覚めたシャカは私を求めて、探しに行ったのかもしれない。
「シャカ、シャカっ!!」
 余裕などない。声もあらん限り張り上げた。まさかとは思ったけれども、念のため、自らが張り巡らせた自宮の迷路をサーチするが、やはりシャカの痕跡など、どこにもなかった。
「どこに行ったんだ、シャカ」
 全身の血の気が引いて行くのを感じた。指先の震えが止まらない。何処に、一体、どこにシャカは行ってしまったのか。
 どうすればいいのかさえ、わからない。早鐘に打つ鼓動がざわざわと耳障りだった。


  『〜〜い、サガ、お〜〜い、聞こえてるか?』


 不意に聞こえて来たアイオロスの声。暢気な調子で直接、私の頭に語りかけてきたのだ。酷く癇に障る。
「っつ、なんだ、アイオロス!」
  『何?不機嫌?やけに余裕ないな......戻ってたんなら、教えろよ』
「なぜ、教えないといけない―――もしかして、そこにシャカがいるのか!?」
  『......今、パッと花開いただろ、おまえ。絶対、間違いない』
「っるさい、今、そっちに行く!」
 アイオロスの言う通りだった。情けないことに。よかった、本当によかった。全身の力が腑抜けそうになったが、それどころではない。すぐにシャカを迎えに行って安心させてやらないといけなかった。




「シャカ!すまなかった!!」
 けたたましく扉を開けたためか、アイオロスと共に中にいたアイオリアが驚き、目を真ん丸にして、持っていたカップを斜めに傾け、中身をぶちまけていた。それを見たアイオロスが「あ〜〜〜〜っ!!」と悲壮な声を上げているのにもかまわず、私は大き過ぎる椅子の上に、ちょこんと座るシャカの元へと駆け寄った。
 片膝を付きながら、シャカを見上げる。僅かにだがシャカの頬には涙の痕が見てとれた。
「すまない、シャカ。一人にして。怖かったな、寂しかったな......」
 きゅっと固く膝の上に置かれた拳に手を重ねる。「ごめん」ともう一度、告げてシャカの痩身を抱きしめた。
「うぉ〜〜い、サガ。こっちには無視かよ?」
 汚れてしまったアイオリアのシャツを捲り上げながら、アイオロスは若干呆れつつ、声をかけてきた。
「あー。すまなかった、アイオロス」
「別にいいけどさ。あんま可哀想なことすんなよ?『さがぁ〜』って、かっわいい声で呼んでやんの!思わず、お兄さんってば、狼になって食べちゃいそうだったわ」
 脱がしたアイオリアのシャツでアイオリアが零した床にぶちまけられた液体を拭くという横着さを披露しながら、戯けるように言うアイオロスに思わず、私は食らいついた。
「―――今、何て言った!?」
「い!?いや、冗談だって!別に食ったりしないってば、サガ」
 異様な食らいつきに恐れをなしたかのように、アイオロスは慌てて否定したが。
「そうじゃない、今『さがぁ〜』って呼んでたって、言わなかったか!?」
 にじりよる私に引き攣りながら、逃げようとしたアイオロスはテーブルに脇腹を打って、顔を痛そうに歪めていた。
「言ったけど。シャカがおまえの名前一生懸命、呼んでたぜ。あいつ、口がきけたんだな、よかったじゃないか。サガ」
「―――聞いてない。私は聞いてないぞ」
 ガッと思わずアイオロスの襟首を掴み上げた。どの耳が聞いたんだ、シャカの声を!右か、左か?ええい、面倒だ、どっちの耳でもいいから寄越せ!と迫った。
「え?ちょ、サガ、マジ!?」
なにギレですか?とばかりにアイオロスがますます引き攣っていた。
「俺にキレてどうするんだよ、シャカに言えよ、シャカに!おい、シャカ、サガって呼んでやれ、頼む、これ以上、こいつがおかしくなる前に!」
悲鳴に近い叫びをアイオロスが上げた。



「......さ」



「え?」
 小さな声が聞こえた気がして、掴んでいたアイオロスを放り投げ、シャカの元へと近寄る。
「さ.......」
 もう一声!とアイオロスが茶化すのを、ギロリと私が睨みつけると、んぐと両手でアイオロスは自ら口を押さえた。アイオリアもまた同じように真似をしていたのが目端に映ったけれども、どうでもよかった。
「ん、シャカ。ゆっくりでいいから」
 こくん、と小さく頷いてみせるシャカ。小さな口を一生懸命、もごもごさせながら、何度も「さ」を繰り返して、「が」をようやく絞り出した。
「さ、が」
 何とも言えない愛らしい声だった。私の名をようやく呼んだシャカ。たどたどしくはあったけれども、シャカはこの日を境に「サガ」と私を呼び、「おはよう」も「おやしゅ(す)み」も「いたらき(だ、が言えないらしい)ます」も「おかえり」も話せるようになった。
 毎日、話せる単語が増えるたびに報告する私を、アイオロスは「別の意味でヤバくなったな、おまえ」と生暖かい眼差しで見るようになったのだった。

作品名:lotus 作家名:千珠