lotus
6.開花
「今、なんとおっしゃられたのでしょうか―――教皇」
言葉の意味が理解できなかった。横で同じように聞いていたアイオロスも同じだったようだ。意味が分からないといった風に、首を傾げていた。
「随分と落ち着いたようだし、そろそろ、頃合いだと言ったのだ、サガ。あれほどの素質を持っていながら、このまま、ただ人として一生を終えさせるのは実に惜しい」
意味がわからない......音を発することなく、その言葉は闇へと飲み込まれていった。横でアイオロスが固唾を呑んだのがわかった。
「あの子供―――シャカに内包する小宇宙は無限の拡がりを感じさせる。なかなかどうして、下手をすればおまえたちを凌ぐほどの黄金聖闘士になるやもしれぬぞ?どうだ、サガ。試してみる価値はあるとは思わぬか」
私は静かに目を閉じた。ああ、教皇は一体何を言い出すのか。あの子が聖闘士になるだなんて。しかも、黄金聖闘士とは―――可笑しいよな、シャカ。
ここのところシャカの成長は著しいものがあった。止まっていた時がいきなり進み始めたようにさえ感じるほどに。
小さくて、ただ折れんばかりだった細い身体にも、それなりに肉もついた。相変わらず細くはあったが、アイオリアと追いかけっこをしても、追いつかれないほど、逞しく育った。言葉だってたくさん覚えた。色々な知識を一気に吸収していった。貪欲なほどに求めるのだ。求められるままに、惜しみなく与えた結果、時には私でさえ、舌を巻くほど博識なこともあった。
何よりも、その容姿は愛らしいものとなっていた。背中まで伸びた美しい髪。だが、残念なことにアイオリアと木登りをしたおかげで、仕掛けられていた鳥餅を引っ付けてしまい、絡まってしまった。そのため、否応無しに、泣く泣く、惜しみながら綺麗に肩まで切り揃えてやった。
本人は頭が軽くなったと嬉しがっていたが、こんな目に遭わせたアイオリアに、私はもちろん、きつく灸を据えてやった。その後、保護者からは若干の抗議が上がったが。
そんな風に平穏に過ぎていた至福の時。何の前触れもなく、突然、教皇によって奪い去られようとしていた。いつかはシャカが巣立つ時が来るのはわかっていたけれども、それはこんな形で訪れるものではなかったはず。到底、私が納得などすることはない。
「素晴らしいことじゃないか、サガ。こんないい話なんてないだろう。アイオリアだけじゃなく、シャカまで黄金聖闘士になれるかもしれないんだ。何を迷う必要があるんだよ」
シャカよりもずっと先に、獅子座の黄金聖闘士の座を下賜されたアイオリアの保護者であるアイオロスは興奮気味に教皇宮からの帰り道に告げた。なぜ、そんなに嬉しいのか、私にはわからなかった。黄金聖闘士という立場が、それほどに素晴らしいのだろうか。その存在に疑問にさえ思う私には何の魅力もないというのに。
むしろ、血腥い修羅の世界に、あの優しげな春風を纏うシャカを引き入れたくなどはない。
「本当におまえはそう思うのか、アイオロス。そうだな、おまえはアイオリアが獅子座の黄金聖闘士を下賜たまわった際には大層、喜んでいたな」
虚ろに答える私をアイオロスはなおも説得する。
「あいつはきっと優れた聖闘士になれる。おまえだってそう思うだろう?それにもう―――」
言いかけて、慌ててアイオロスは口を噤んだ。引っかかりを覚えて、アイオロスに詰め寄る。
「もう?なんだ、何が『もう』なのだ。はっきりと言え、アイオロス!」
尋常でなどではいられない。何が起きているのか。不安が渦巻く。
まるで四肢を縛られたまま、荒れ狂う海へと投げ込まれ、心は空気を求めもがき苦しみながらも叶うこともなく、どんどん身体は真闇と化した深海に沈み、ただ一人だけの世界となったような恐怖。
「落ち着けよ、サガ。どうしたんだ。おまえらしくない、じゃないか」
焦って取り繕うアイオロスを岩壁へと強く押しやった。「っつ!」衝撃にアイオロスが顔を歪ませてもなお、強く締め上げた。
「誤摩化すな、アイオロス。何なのだ、一体!言えっ!」
「――もう、決まっていることだ、サガ。あいつは選ばれたんだよ、乙女座の星宿に」
「嘘だ――そんなはずはない、あの子は......ただの子供だ!」
「じゃあ、聞くが!なんで処女宮の、それも、あの開かずの門の中に入れるんだよ!?おかしいじゃないか!ただの子供がどうやって、何人も寄せ付けないはずの『あの』門の中に入れるんだよ!?」
声高に叫ぶアイオロスの文句に青ざめる。信じられなかった。
「知らない、私はそんなこと、知らないっ!!」
怒鳴り散らすようにして、全力で否定する。そんなはずはないのだ。シャカがあの処女宮にいただなんて。それも、その最深部である『開かずの門』と言われた秘密の場所になど、宮主以外がその場所に行けるはずなど、ないのだから。
「おまえを探して彷徨っていたシャカを俺が保護したことがあったろう、サガ」
慈悲深く、哀れみを含んだ声音で諭すアイオロス。覆ることのない未来なのだと、逃れることなどできない運命なのだと告げるように神妙な面持ち。
「―――!ま...さか」
「おまえには言わなかった。言えなかった。シャカはその時、そこにいたんだ......ごめん、サガ。俺はまさか、って思ってたし。もしも、そうだとしても、きっとおまえは喜ぶだろうと思っていたから、黙っていたんだ。今日、この日まで。それから......教皇さまに告げたのも俺だ」
「アイオロス......どうして」
アイオロスを掴んでいた手が緩み、そのまま全身が脱力して膝をついた。
「ごめん、サガ。本当にごめん――」
アイオロスは心底から詫びていたけれども、もはや私の耳には遠く、届かなかった。