水風船
……と、まあ。
つまりは彼に流され連れられ、全く持って彼の思惑も何も分からないままに今に至る訳だ。
それでも忙しいはずの彼がこうやって隣にいて、池袋から遠いこの場所まで連れて来てくれて。
それが人間観察のためだろうと今後の何かしらの布石のためであろうと、共にここにくる相手に僕を選んでくれたことが嬉しい。
だから喧嘩をしたい訳ではないのだ。
というかまあ僕が怒っても暖簾に腕押し糠に釘。
今迄も何度か彼の言動に怒った事があったけれど、けれどそのたび臨也さんは、それはそれは楽しそうに怒る僕の様子をにんまりして見つめるだけだった。
僕は怒ってるんですよ、と更に怒って見せれば、分かってるよと嬉しそうに頭を撫ぜられた事もある。
この時は本気で臨也さんはマゾヒストというやつなのかと思った。(そう言ったら頭をはたかれたけど)
そう、とにかく僕は経験して身に沁みている。
臨也さんに怒っても無駄だ。
それに飴の持ち方一つで本気で苛立つほど気は短くない。
「拗ねないでよ、帝人くんに飴をぶつけたりなんてしないから。っていうか俺、そんなに鈍くさくないって」
困ったように苦笑いをして、臨也さんが僕の頭をするりと撫ぜた。
僕から遠いはずの右手で、林檎飴は左手で揺らしたまま。
そこは持ち変える所でしょう、と思わず突っ込みそうになったけれど、ぐっと押さえる。
というかこんな事に拘る方が馬鹿らしい。
彼の言うとおり、彼が僕や他人に飴をぶつけるような真似をするとは思えない。
「ごめんって。拗ねるなってば」
拗ねてはいませんけど、と言おうと見上げた僕が文句を言うとでも思ったのか、臨也さんが僕の言葉を遮る。
ほらあれ御覧、葡萄飴だってさ、と行儀悪く手に持った林檎飴で、臨也さんが境内のが奥を指す。
その拍子に、こん、と彼の持つ林檎飴が僕の持つ林檎飴に触れた。
「 っ、」
「欲しいなら買ってやるから機嫌直しなよ」
君って変な所で子供だよねえ、という呆れを含んだ臨也さんの声を、ぼんやり聞きながら僕は林檎飴に唇を寄せた。
「、」
「綿飴なら、欲しいです」
僕は彼の言うとおり子供なのだろう。
ただ、僕の持つ林檎飴と彼の持つ林檎飴が触れた、ただそれだけなのに。
僕のかじった所と彼のかじった箇所が触れたなんて、そんな偶然に胸を熱くして。
間接キスにも満たないそんな事を特別のように感じて。
無意識ならそら恐ろしいね、と呟いた臨也さんの言葉の意味は分からなかったので、聞き流した。
「やれやれ。それでは我儘なお姫様の為にお望みの品をお持ち致しましょう」
仰々しく御辞儀の真似事をした臨也さんは、黒い着流しの格好をしているのにも関わらず、まるおとぎ話の騎士か王子のようで。
咄嗟に言葉を失った僕に、そこで待っておいで、と言うが早いか臨也さんは背を向けた。
綿飴の屋台へゆったり向かうその背中は、浴衣を着慣れているかのように自然な動作で。
そんな臨也さんに比べ、僕は慣れない浴衣に足元をとられそうになりながら何とか歩いている体だ。
はあ、と思わずため息をこぼして自分の格好を見下ろす。
淡い青が下にゆくにつれ濃くなってゆき、裾は黒に見間違うばかりの濃紺だ。
帝人くんに似合うと思って作らせたけど、やっぱり似合うなあ、と実に爽やかな笑顔でこちらを見やった彼を僕は思いだした。
彼のセンスを疑うべくもないが、それでも自分がこんなに大人っぽい浴衣を着ていることに気恥ずかしさを覚えるのも事実だ。
俯いていた視界に臨也さんの足先が映って顔を上げる。
「はい、帝人くん」
ぱしん、と彼の手から軽い音がたつ。
「……あの、」
ぱしん、ぱしん、と音を立てるそれを見やる。
勿論、綿飴はそんな音はしない。
臨也さんが軽快に手で跳ねさせているのは、クリーム色をした水風船だった。
「水風船、」
「考えたら綿飴って場所取って邪魔じゃない。帝人くんは誰かにぶつけそうだし」
そんなことしません、と言おうとしたら、それに俺と違ってまだ林檎飴たべきってないでしょう、と言って笑われる。
別に僕が綿飴を食べたいと言い出した訳じゃあないんだけれど。
いや確かに綿飴なら食べたいとは言ったけれど、それは彼の話にのって答えただけであってつまり僕の意志ではないんだけれども。
彼の頭の中では僕があれこれ食べたいと言ったことになっているらしい。
もうなんでもいいけど。
はあ、とため息を吐こうとした時だった。
「はい」
臨也さんが手を差し出してくる。
「…お金なんて持ってきてないですけど」
誰かさんが突発的に誘拐してくれたおかげで、と暗に伝えれば、ちょっとなんで君はそう突飛なの、と呆れた声が返ってきた。
「手、ほら」
そういって更にこちらに手を伸ばしてきた臨也さんの手を取るつもりはなかった。
なかった、のに。
右手に持ってた林檎飴はいつの間にか左手に移動していて、気付いたら右手を彼の手に重ねていた。
(あ、)
手が触れた瞬間、く、と強く引かれて、小さくたたらを踏んだ。
誤魔化されたと思った。
けれど僕の瞼にはしっかり焼き付いている。
僕が手を取った瞬間の臨也さんの表情が。
ほっとしたような、思わずというような、そんな自然な笑顔。
体勢を整えて見上げた彼は既にいつもと変わらない笑顔で。
「混んでるからね、はぐれたら大変でしょ。帝人くんはここが何処かも知らないんだし」
知らないんだし、って。
「秘密だよって言いながら連れ出したのは貴方でしょう」
奥に向かって歩きだした彼について僕も歩き出す。
「そ。帝人くんは今、俺以外に頼れる人間ないていないんだよ」
そんな馬鹿な話。
道に迷ったって、その辺の人に聞けばいいだけの話だ。
今だって屋台の人に聞けば、直ぐにでもここが何県で何処の町でどうすれば最寄り駅に行けるかだって分かる。
もっと情緒がない話をすれば、携帯のGPS機能でここがどこかなんて直ぐにわかる。
けれど。
けれども。
「…そうですね」
「、」
それでもいいと思った。
彼以外に頼るものがなくなってもいいと。
彼に捨てられたのなら、そこでお終いになるのも良いと。
馬鹿みたいだ。
こんな所でお終いになんてなっちゃいけないのに。
やらなくちゃいけない事は沢山あって、やりたい事も沢山あって。
帰る場所だってあるし帰りたい場所もあるし、欲しい物も切り捨てなくちゃいけないものも守りたい物も護りたい場所もあるのに。
そうしてそれは、隣で僕の手をひくこの人の傍にはないものなのに。
なのに、それでも良いなんて。
ほんとうに、馬鹿みたいだ。