【けいおん!小説】 水の螺旋 (第四章・真理) ・上
その間、和はゴールデンウィークに入る直前の日のことを思い出していた。唯が帰ってきたと聞いて、彼女の家にみんなで集まった日。
あの時、唯は急に身体に電気が走ったように硬直し、「凜くんが来る」と云った。本当に凜は来ていた。なぜ分かったのだろう。明確な答えを唯の口から聞いたわけではないが、お互い精神世界にダイブできる、すなわち夢を共有できる身なので、夢の世界を通じてテレパシーができるのかも知れない。
さて、あの日の夜だが、姫子が凜に告白して、部屋から出てきたすぐ後、凜も部屋を出てきた。そして唯に、「みんなを守ってやれ」そう云い残して去って行ったのだった。唯や和をはじめ、そこに居合わせたみんなには、凜がそんな言葉を発したことが意外に思われたが、とにかく凜はそう云い残して、唯を病院へ連れ戻すことなく去って行ったのだ。
そこから、またみんなで話し合って、それぞれがこれからもなるべく普段通りの生活をするように決めた。ただし、寝る際には、精神世界に迷い込まないようにと心がけ、万が一迷い込んでもすぐに唯とコンタクトがとれるように、彼女のことを意識しながら眠ることにした。これは、精神世界へはほんのわずかな心の迷いが生じたときに引きずり込まれやすいという性質と、精神世界に入り込んだ人間は、互いにその世界を共有している状態にあり、かつ意識を向けた対象に引かれやすいという性質があるためである。寝る直前に唯のことを考えていれば、精神世界に迷い込んだときに唯に出会える可能性が高くなるのだ。
これらのことを意識しながら眠るなんて、やりにくくて仕様がないだろうと一同は思ったが、仕方がない。他に有効な手立てはないのだ。
それから、それぞれが普段通りに生活を始め、夜だけは唯が夢の番人になる、そんな日々が続いた。そのような感じで、1週間以上が過ぎたが、まだ危険な目に遭ったメンバーはひとりもいない。
ただ唯だけは、やはり今でも凜や石山教授のいる病院へ週に2回ぐらいのペースで通っている。SDR因子を含んだ飲み薬をもらうという目的もあった。SDR因子を定期的に摂取してなければ、唯は精神世界にダイブする能力を失ってしまう。
和がそんなことを思い返している間に、凜はスライドグラスにスポットした2滴の液体の上に、それぞれカバーグラスをかけ終えていた。そして、和の方を向き直った。
「…面白いものを見せてやるよ。ついて来てくれ」
そう云って、凜は立ち上がって歩き出した。和もその後に続く。歩きながら凜は説明した。
「今やっているのは、SDR機構の意義について詳しく調べるため、ヒト以外の別の生物の染色体上にSDRの配列を導入して、変化が起こるかどうかについての実験だ。手始めに、簡単な生物である酵母菌と、ヒト以外の哺乳類の代表であるマウスにそれぞれSDR配列を導入して、それぞれの変化を観察している」
そう話しているうちに、ふたりは顕微鏡の前に着いた。
凜は顕微鏡のステージにスライドグラスを置き、ステージを動かして左側のカバーグラスの方に対物レンズがくるように調整した。さらに、調節ねじでレンズを動かしてピントを合わせてから、和の方を振り返って云った。
「今から観察するのは、SDR配列を10リピート分染色体上に導入し、SDR因子を混ぜた培地で培養した酵母菌の形態だ。まず比較のために、SDR配列を導入しない状態でSDR因子を混ぜた培地で培養した酵母から先に見てもらう」
凜がうながしたので、和は顕微鏡の接眼レンズで菌を観察してみた。少し細長い、丸型のものが多数レンズに映し出された。
「いわゆる普通の酵母と同じような形態だ。因みに、僕の観察してみた限り、SDR因子を混ぜた培地で培養した酵母と混ぜなかった培地で観察した酵母では、増殖速度や形態には殆ど変化は見られなかった。つまり、通常ではSDR因子は酵母の成長には殆ど影響を与えないということだ」
凜はさらに、ステージを動かして、先ほどのカバーグラスとは逆の、右側のカバーグラスの方を観察できるようにした。そして、またピントを微調整して云った。
「さて、今度はSDR配列を導入した方だ」
和は顕微鏡をのぞいた。先ほどよりもウジャウジャしていて観察しにくい。それでも、何とかひとつひとつの酵母の形を注意深く見るように努めた。すると、先ほど見た通常の酵母とは形態がかなり違うことに気がついた。
大きさがやたらとデカい。どれも丸く膨れ上がっていて、先ほど観察したものの3倍はある。
「どうだ。形が大きいだろ。あと、やたらと細胞数が多くて観察しづらくないか?実はこれでも観察しやすいように希釈したんだよ。それでもこの見え方ってことは、増殖速度がめちゃくちゃ速くなってるってことだ」
「増殖速度が?」
「ああ。寒天培地にまいた時から、おかしいと思ったんだ。普通寒天培地にまいてからある程度のコロニーができるまで、2, 3日かかるんだが、SDR配列を導入したのは、まいてから1日足らずでもうコロニーがびっしりだった。で、コロニーをとって液体培地で培養してみたんだが、驚いたことに培地の濁っていくのがSDR配列導入株では著しく早い。実際細胞数を測って、細胞周期の時間を計算してみたんだが、通常は1周期が3時間程度なのに対して、SDR導入株では40分から50分という結果だった。驚異的な時間だ」
「それだけ1サイクルの時間が短縮されているということですか?」
「ああ。その可能性もあるが、もうひとつ考えられるのは、40分程度というのは、DNA複製と細胞分裂にかかる時間を合計したのと同じくらいだ。つまり、G1, G2期をすっとばして、S期とM期のみで回っていると考えることもできる」
細胞周期は大きく4つに分かれる。G1期,S期, G2期, M期である。この中でS期はDNA複製を行い、M期は細胞分裂が起こる時期である。あとのG1, G2期は、複製や分裂に必要な材料を用意したり、染色体DNAの構造や配列などの状態をチェックして、それらの反応を本当に起こしていいものかを確認する時期である。仮に、そのG1, G2期がなくなっているのだとすれば、染色体の構造がめちゃくちゃになったり、DNAに変異が入った状態でも構わずに、次の反応を起こし、遺伝情報の秩序がぐちゃぐちゃになってしまう細胞が多数出ることだろう。
「それに、大きな矛盾を感じるのは、これだけ速いスピードで細胞は分裂を繰り返しているのに、細胞の大きさが肥大していることだ。通常、1度分裂した細胞は、直後はその大きさは一番小さく、それが次のM期に入るまでにある程度の大きさまで成長する。つまり、細胞の大きさは細胞周期にかかる時間に比例するんだ。ところが、この細胞ではまったく逆のことが起こっている。ひょっとしたら、他の代謝などの経路もやたらと速いスピードで起こっているのかも知れない。そう思ってね、今度はひとつのSDR因子を含んだ液体培地に、SDR配列を含む酵母と含まない酵母を、同じ細胞数だけ加えて培養した。その上で菌を培養して、顕微鏡で観察してみると思わぬ結果となった」
「…どうなったんですか?」
作品名:【けいおん!小説】 水の螺旋 (第四章・真理) ・上 作家名:竹中 友一