【けいおん!小説】 水の螺旋 (第四章・真理) ・上
「SDR配列を含まない、通常の酵母がひとつも見つからなかったんだ。もちろんSDRを含んだ方の増殖があまりに早すぎて、もう一方が増殖できなかった可能性もある。そこで、何代か継代 (細胞増殖がプラトーを迎えて止まってしまうのを防ぐため、別の培地に前の培地を適量加えて培養を続けること) したり、さらには継代の度にSDR配列を含まない酵母をさらに追加したりもしたが、結局結果は同じだった。つまり、SDR配列を含むものが、含まないものを駆逐してしまうんだよ」
和は深刻な顔で黙り込んでいる。想像もつかない事実に言葉が出ないようだ。
代わりに、凜が彼女に尋ねた。
「どうだ。何かを彷彿とさせないか。形態の劇的な変化、通常の機構を無視しての増殖能、他者を駆逐するまでの生存力、あとまだこれは想像の域を出ないが、染色体DNAの配列・構造が変化し得るかも知れないということ…。似たようなものが思い浮かぶだろ」
「まだそう云い切れる要素が揃ってはいない気もしますが…、がん細胞ですか?」
「そうだ。僕もそう思った。がん細胞は染色体DNAが変異したり形態が変化したりすることで、無限の増殖能を獲得し、周りの細胞との秩序を無視して増え続け、別の組織にまで浸潤し、周囲の細胞を駆逐しながら成長する。この酵母の状態はがん細胞のように見えないこともない」
凜はステージからプレパラートと取って、立ち上がった。自分の実験机にプレパラートを戻してから、手で和を促し外に出た。和は凜について行く。向かった先は、マウス小屋だった。
「今度はSDR配列を導入したマウスだ」
小屋に入ってロッカーから白衣を取り出し羽織ってから、奥の部屋に入る。
そこにはたくさんのケージが置かれ、それぞれにマウスが数匹入れられ、各々ケージの中をところせましと動き回っている。
凜は部屋の奥に置かれていたケージを取り出した。
「これを見てくれ。これはSDR配列を導入したトランスジェニックマウス (遺伝子操作を施したマウスのこと) だ。エサにはSDR因子を混ぜてある」
続いて、凜は別の手ごろなケージを取って並べた。
「こっちが通常のマウス。何となく違うのが分かるかな」
和は双方のケージのマウスを交互に観察した。確かに何となく違う。
通常のマウスの目の色は身体を流れる血液の色を反映して、鮮やかな赤色をしているが、SDR配列を導入したマウスの目の色は少し濁っており、瞳に反射して映る光も澱んで見えていた。
さらに、飽くまで受けた印象だが、SDR配列を導入したマウスには、何となく雰囲気が異様というか、触れがたいオーラのようなものが出ているように思えた。
和は観察して感じた素直な感想を述べた。すると、凜は「いいところに目をつけたね」と云って、別のケージも出してきた。
「これは、普通のマウス九匹の中に、一匹SDR導入マウスを入れたものだ」
和はこちらのケージも観察する。目撃したのは異様な光景だった。
大多数のマウスがやせ細っており、2匹ほどはもう死んでいた。そんな中たった一匹、他のマウスとは不釣合いな太り方をしているものがあった。目の色や雰囲気から、これがSDR導入マウスであると察しがつく。
そのマウスが動き出すと、他のマウスは脅えたように道をあけるのだ。まるで神を恐れる人間のようだ。SDR配列を導入したらしいマウスは、ケージの上にかぶせてある金網のくぼみに入れられたエサをむさぼるように食いだした。その間、他のマウスはケージの端で縮こまったまま、エサに手を出そうともしない。
「ずっとこんな調子だ。SDR導入マウスに対し、他のマウスは畏怖の念を抱いているようだ。SDR導入マウスはこの小さなケージという世界に君臨し、他のマウスはそれに着き従わざるを得ないような、そんな感じに見える」
そう云って、凜はケージの上の金網を取り外し、死んだ二匹のマウスをケージから取り出した。一匹はやせ細っているものの身体は無傷で、おそらく死因は餓死と思われるが、もう一方のマウスは傷だらけになっていた。おそらくSDR導入マウスに嫌われ、集団でいじめ殺されたのだろう。
凜は二匹のマウスをそれぞれ紙でくるんで、小屋備え付けのフリーザーへ持っていった。死んだマウスはこのようにいったん冷凍して、のちに実験動物専用の廃棄場へ持っていくことになっている。つまり、そこが実験動物の墓場ということになる。
ふたりはマウス小屋を後にした。
「はじめはSDR配列をあらかじめもっていたヒトの細胞だけでやっていたんだが、別の生物に改めてSDR配列を導入したら、このような劇的な現象が観察できた。酵母のほうはガン化したような状態になり、マウスの方はケージの中で独裁者になった」
「ふたつの事象に何か共通点はあるのでしょうか」
和は訊いた。
「がん細胞は秩序を失くし暴走した細胞だ。当然、秩序を保って生命を保っている生体において、それは害になる。がん細胞の活動が大きくなると、生体の秩序は崩され、破綻してしまうだろう?云ってみれば、がん細胞とはそれだけ勢力の強い細胞だということだ。仮に、そのような強いものが、我々に勢力を拡大させ迫ってきたとき、生き残る手段は不本意でもそれに屈服して、つき従うしかないということになる」
「それがあのマウスに起こっていることだということですか」
「そうだ。けれど、結局は独裁者によって、すべてしぼりとられてしまう。最終的には、あのケージのマウスは、SDR導入マウスを除いて、すべて死んでしまうだろうな」
なるほど。そう云われれば、マウスの例も確かにがん細胞と似ているところがある。がん細胞は他の細胞に行き渡るはずの栄養分を独占的に取り込んで、自身の勢力を伸ばす。それはあのケージで、SDR導入マウスだけが肥え、他のマウスは飢えてやせ細っていたのと共通している。
「あっ」
和は呆気にとられたように立ち止まった。凜も合わせて立ち止まる。
「ちょっと待って下さい。他の生物でそういう現象が見られたということは、SDR領域をもち、SDR因子も摂取している人間にも、その危険性があるんじゃないですか?つまり、唯や賭里須先輩に何か大変な不具合が起こる可能性もあるということじゃないですか。特に唯は、SDR領域の保存度がかなり高いそうじゃないですか」
凜はフッと表情を緩めた。気にしすぎだ、と云わんばかりに。
「その可能性はゼロとは云い切れないが、おそらく心配する必要はない。なぜなら、ゲノムサイズから考えても、酵母やマウスに導入したSDR配列のサイズは、ヒトのもつゲノムから比べたSDR配列のサイズよりもはるかに大きい。それに、投与しているSDR因子の量もかなり多い。仮にこのような危険性がヒトに対してないわけではないといったとしても、その影響ははるかに小さく、ないといっていいくらいのものだろう」
「だとしても、その危険にさらすことになるのには変わりはありません。賭里須先輩、本当に大丈夫なんですか?あなたは、唯を本当に守ることができるんですか!?」
「…問題ない」
そう云って、凜は再び歩き出した。
和は凜の言葉を信じる気には、どうしてもなれなかった。
作品名:【けいおん!小説】 水の螺旋 (第四章・真理) ・上 作家名:竹中 友一