【けいおん!小説】 水の螺旋 (第四章・真理) ・上
石山はさわ子に、以降の自身の研究の進度について話した。世界の超能力者の中に、特殊な反復配列を持つものの割合が多かったこと、その遠い祖先は巫女など神に仕える仕事をしていたこと、石山らがSDR配列と名づけた上記の反復配列に結合するタンパク質 (SDR因子) があり、それが下位の複数の遺伝子発現を調節しているということ、ただしSDR配列もSDR因子も現在の殆どの人間は保有していないということ、そして、石山らが『SDR経路』と名づけた上記の経路が、どうやらスピリチュアル・ワールドへのダイブに関わっているらしい、ということ。
むろん、石山は素人にも分かるように、かいつまんで話したつもりだが、さわ子は神妙な顔をして片手を顎にあてたまま考え込んでいる。だが、さわ子はやがて納得したように、
「なるほど、何となく分かりました。それで、質問なんですけど、そのSDR経路で活性化された遺伝子が、どうやってその世界へのダイブに関わるのでしょうか」
と質問をしてきた。
「それについてはまだ分かっていません」
石山は正直に答えた。
「今の科学では、『そうである』と云われていることでも、その詳しいメカニズムは分かっていないことが多いんです。私のスピリチュアル・ワールドの研究においても、そのような部分はまだ大いにある。悲しいかな、人智科学が絶対科学に追いつけないことの好例でしょうな。ただ、あのSDR経路がスピリチュアル・ワールドへ行くために必要であるということは、確かなことだと思います」
石山は少し寂しそうな顔をした。どうやら、研究者である彼にとって、自分の研究が真理とは程遠いことは本当に残念なことであるようだ。
「つまり、SDR経路が宇宙の真理と我々をつなぐ鍵だということでしょうか」
「その可能性はありますね。ただ、必ずしもそうとは云い切れない。なぜなら、現時点で分かっているのは、SDR経路がこの現実とは違う世界へ我々をいざなうパイプであるらしいということだけです。我々はスピリチュアル・ワールドが宇宙の根幹であると云っていますが、それは科学的に見れば、現時点では飽くまで“仮説”です。つまり、解明できた事実や上がってきたデータを論理的につなげるのに最も矛盾がない説を、現在我々が唱えているということです。ですから、今後の研究如何によっては、スピリチュアル・ワールドの存在意義も変わってくるかも知れない。それは人智科学がまだまだ完全じゃない点から考えて、仕方のないことです」
さわ子は思った。それでは、教団の教えそれ自体が揺らいでしまうのではないだろうか。
「しかし、現時点で、我々の説が多くの人々に支持されているのは事実です」
石山はつけ加えた。
二葉はふたりの会話が途切れたのを確認して、切り出した。
「さて、我々はこれから少し大事な会議がありましてね。またよかったら、次の機会にでもお話をさせていただきましょうか」
「そうですね。どうもありがとうございました」
さわ子はそう云って立ち上がった。石山と二葉に見送られ、彼女は部屋を出た。
「ありがとうございました」
さわ子は一礼して、その場を後にした。
彼女が去っていったのを確認してから、石山はドアを閉めた。そして、訝しそうに二葉に云った。
「…この後、我々に会議はなかったはずだが」
二葉は上目づかいに石山を睨んだ。
「君、あんなことを云っちゃいかんぜ。『スピリチュアル・ワールドが世界の根幹というのは単なる仮説だ』なんて、我々の唱える教えを真っ向から否定したようなもんじゃないか」
二葉は厳しく石山を責めた。
「私は否定などしていない。ただこれからも解明すべき問題がたくさんあると云っているだけだ」
「だとしてもだ、それを聞いた一般人はどう思う。我々はこの教義を世間にもっと広めなくてはならない。それは教団を大きくすることにもつながる。君みたいなことを云っていたら、集まる信者も集まらない。それじゃ、困るじゃないか」
今度は石山が厳しい声を出した。
「何を云う。私がしたいのは、この世界の理を解き明かすことだ。教団の運営のために、真実をねじ曲げて伝えるなど、本末転倒だ」
「そんなことは二の次だ。まずは、教団の礎をしっかりさせることだ。君の自己満足では、誰も救えんぞ」
そう云うと、二葉は部屋を出ていった。
大学時代からの付き合いである二葉だが、ここに来て大きなずれが生じてきているように石山は感じた。そのずれは、ひょっとしたら、お互いがたもとを分かつ原因になるかも知れないし、ややすると争いの火種になり得るかも知れない。
4
和は時計を見た。時計は7時をすでに回っている。
彼女は今、駅の改札の前に立っている。ここで7時に唯と待ち合わせをしていたのだが、どうやら唯は遅刻のようだ。
やがて、ガタガタと電車の音が、構内に鳴り響いた。しばらくして、サラリーマンや学生たちがホームへとつながる階段を下りて、改札に向かってくる。和はその中に小走りでやってくる唯の姿を発見した。唯は改札を通って、こちらにやってきた。
「ごめんね、和ちゃん。遅くなって」
「いいわよ。そんなに遅かったわけじゃないし」
和は特に意識するでもなく、唯をまじまじと観察した。石山教授の研究室で見た、酵母とマウスの実験が気になっていた。唯にも何かおかしなことが起こっているのではないか、と心配したのだ。
見たところ、特に変わった様子はない。SDR配列を導入した酵母は細胞の形態が膨れ上がっていたが、唯はとくに身体がパンパンになっているということはなかった。もっとも、それは外見だけで判断できるものではないだろうが。
楽観的な見方もある。酵母、マウス、ヒトはそれぞれ違う種の生物であるからして、それぞれの持っている遺伝子のパターンも当然違う。だから、酵母やマウスで起こったことが、ヒトにも起こるとは限らない。ただし、真核細胞生物であり、よく似た生化学的プロセスで生命維持を行っている三者の遺伝情報には、共通している部分も当然多く、ただ楽観していればいいというわけでもない。
「和ちゃん、どうしたの?」
唯が不思議そうに訊いてきた。ただ黙り込んで、じっと自分を見ている和を疑問に思ったのだろう。
「あ、いや、何でもないわ。じゃあ、行きましょうか」
ふたりは並んで歩き出した。これから、唯の家へ向かう。他のメンバーはすでに彼女の家にいるはずだ。今日は互いの無事の確認も兼ねて、みんなで顔合わせをすることにしていた。メールや電話でも連絡は取り合っているが、一応直接会った方が確実にそれぞれの安否が分かるだろう、という魂胆だった。
和は隣の唯の横顔をちらちらと見ながら歩いていた。すると、驚くべきことが分かった。
作品名:【けいおん!小説】 水の螺旋 (第四章・真理) ・上 作家名:竹中 友一