蠱毒
雪男がちらりと空を見上げて呟いた。灰色の雲が今までの熱を塞いでいっそう蒸し暑い中を、熱い風がさらに掻き回して行く。
空き地に駆けつけると、勝呂が地面を睨みつけて印を結んだまま固まっていた。勝呂の前には少年が良く使う防御壁が現れている。視線の先を辿れば、休憩時間に構った黒猫が居た。体中から、黒々とした瘴気が立ち上っている。ぴゃ、と御饌津《ミケ》が怯えた声を上げた。
「まさか…、あの猫が…?」
神木の呟きを捕らえた雪男が、聖水入り手榴弾を取り出す。出雲も袋の中から、同じく缶を掴み出す。手に握った銃を見せた雪男と頷き合って、二人は一斉に黒猫めがけて投げつけた。すかさず雪男が黒猫のもっとも近くで、正確に聖水入りの容器を撃ち抜く。飛沫をかぶった黒猫が、にゃーっ!と鳴き声をあげて、弾かれたように飛びすさった。全身から湯気のような煙が上がっている。聖水が効くのなら猫叉《ケット・シー》ではなさそうだ。雪男と出雲はほっとため息を吐く。
猫叉《ケット・シー》は猫にとりつく悪魔だが、聖薬系が全く効かず、致死節も解明されていない。正直現時点では祓えない悪魔だ。
「神木、若先生」
勝呂がほっとしたような表情を浮かべる。
「保食《ウケ》!神酒を出して!」
出雲が柏手を打ちながら祝詞を唱える。白狐がぐるぐると回って輪を描き、次第に巨大な杯になったかと思うと、ざばりと大量の神酒を猫に注ぐ。
悲鳴を上げた黒猫の輪郭がどろりと溶けた。中から灰色の固まりが蠢いて、猫だった皮をぺろりと剥いで膨れ上がる。ぬらりとした質感のそれが、ぶるぶると震えながら出雲達の倍以上に巨大化しつつ、細長い本体の周りに短い突起を生やしていく。巨大な芋虫か毛虫のようだ。蛇が鎌首をもたげた様な突端に鋭い牙が幾重にも生えた口がポカリと開いて、不気味な叫び声を上げて三人を威嚇する。勝呂、雪男、出雲の三人はこみ上げてくる吐き気を堪えねばならなかった。
「何なのよ、コレ!」
「俺が知るか!若先生、コイツなんですねん!?」
「僕にも判りません。早く祓魔師の皆さんが来てくれると良いんですが…。ともかく二人は下がって!ありったけ使って構いませんから、聖水を奴に投げてください」
雪男が両手の銃を撃ち始める。勝呂は袋の中から手榴弾を取り出すと、上部のボタンを押して芋虫に向かって投げる。聖水を撒き散らしながら、弧を描いて飛んでいった缶は、牙の近くに当たった。芋虫は飛沫を嫌がって灰色の体を捩った。
「御饌津《ミケ》、保食《ウケ》、アンタたちも聖水投げて!」
「口の中狙え!体の中のが弱いやろ!」
使い魔たちが尻尾を振って、次々と缶を放り投げる。勝呂と出雲も負けずに化け物めがけて投げつける。地面に撒かれた水が、篭った熱でむわりと湿気を巻き上げる。体中に纏わり付いて、体が重く感じる。
雪男の弾丸も体に命中してはいるが、大きなダメージを与えられるような傷にならない。しかし、嫌がっていることから効果があるのは間違いなく、苛立たしげに身を捩る。
「先生、危ない!」
弾倉を換えようとした雪男の隙を、芋虫が尾で押し潰そうとする。
「後頼む!」
勝呂が駆け出しながら、印を結び真言を唱える。
「ちょ…!」
出雲は文句を言いかけて、言葉を飲み込む。芋虫が巨大化したような化け物の正体が判らない。悪魔が憑いているのだろうと言う予測でしかなく、いくら聖書や真言を覚えていても、対応する節が判らなければ仕方ない。ならば、おそらく勝呂は防御壁を出すだろう。
「ふるえゆらゆらとふるえ」
素早く祝詞を唱えて、出雲は今にも二人を押し潰そうとする芋虫に使い魔をけしかけた。光の筋となった二匹の狐がぐるぐると目まぐるしく取り巻いて、鋭い刃のように体を切り裂いていく。深い傷ではないが、あちこちに傷が出来るため、化け物が巨体でのたうちながら嫌がる。
「若先生、今のうちや!」
勝呂が防御壁を解いて、雪男を離れた所まで引っ張り出す。
「こっちも一旦切れるわよ!」
『靈《たまゆら》の祓』もそう長く続く術ではなかった。勝呂が受けてもう一度防御壁を出す。
「こっちも換装終わります、大丈夫!二人とも引き続き援護をお願いします」
金属を叩きつけるような音と共に新しい弾倉が銃に装填されると、すぐさま雪男が防御壁を飛び出していった。同時に勝呂と出雲が再び手榴弾を投げつける。じりじりとした消耗戦だった。もうすぐ手持ちの聖水が尽きる。出雲はまた神酒を出すかと思案し始めた頃に、大勢の足音が響いて来た。祓魔師たちが到着したのだ。
空き地に入るなり彼らはあらかじめ打ち合わせたように武器を手に散開していく。容赦のない攻撃に見る間に芋虫の化け物が打ち倒されて行く。同時に詠唱騎士《アリア》が致死節を唱える。
「候補生《エクスワイア》だね?良く持ちこたえたな。もう大丈夫だ」
年嵩の祓魔師が二人を労う。そうしている間にも、細長い巨体のあちこちに穴が開き、堪えきれなくなって地響きを立てて横倒しに倒れた。詠唱騎士《アリア》の唱える声が聖典の言葉を叩きつけるように唱和して終わる。途端に、芋虫の体がびくり、と固まった。そして灰が風に吹かれたように、細かい塵になってあっという間に崩れてなくなった。
白狐たちは疲れ果てたのか、勝呂と出雲の傍で丸くうずくまっていた。出雲と勝呂はほう、と安堵の溜息を一つ吐くと、力一杯握っていた聖水の缶を放り出した。
「あれは…、何やったんですか?」
勝呂がそばにいた祓魔師に尋ねる。
「あれは霊《ゴースト》の一種だ。相当に凝り固まった念を持っていたから、上級の悪魔に憑かれていたとしたら、もっと大変だったろう」
空き地に埋まった壷は、その後陰陽師系の祓魔師たちが長々とした儀式を行って、地面から取り上げて行った。その後の中途半端に雑草が残っている空き地を、勝呂と出雲はうんざりとした顔で眺めていた。
「これまだやらなアカンのか…」
「アタシだってイヤよ」
脇をちらりと見ると、使い魔が二匹揃って、イヤイヤと泣きそうになりながら首を振っている。夏場の長い日差しもそろそろ日暮れの色になってきていた。もう六時を回った頃だろう。
仕方ない、やるか、とのろのろと鎌と円匙《シャベル》を取り上げた二人の下に、元気な声が響いてきた。
「おーい、手伝いに来たぞー」
奥村燐だった。その後ろに祓魔塾の面々、そして奥村雪男も歩いてきている。
「お前らまだ終わってねーって言うからさー」
能天気に、しょーがねーなー、と言う燐に、思わぬ実戦任務に携わり気が高ぶっていた二人は、思わず噛み付いてしまう。
「仕方あれへんやろ!」
「そうよ、こっちは大変だったんだから!」
「判ってるって。お前ら抜いた草集めてくれよ。力仕事ならオレがちゃちゃっとやってやっから!」
任せとけ!と自信たっぷりに笑って円匙《シャベル》を担いだ奥村燐も、肩まで日焼けで真っ赤になった腕をしている。顔も日焼けで真っ赤だ。軍手から先はきっと日焼けしてないのだろう。明日の朝にでも気がついて、大騒ぎするに違いない。
「アホゥ、お前にだけに任せとけるかい」
先ほどまでぐったりと疲れていた勝呂が、燐と競うように雑草を掘り起こし始める。
「皆でやれば直ぐに終わっちゃうよ」