泡沫の恋 前編
臨也の寝室は、広かった。
ここだけでも自分の部屋より広いな、と静雄はやっぱり広いベッドに腰掛けながらぼんやり考える。
バスローブなんてものも初めて着た。こんなの日常で使う人間もいるのか、とどうでもいい感想を抱く。
髪の毛がまだ湿っていて、しずくがぽたりとたれた。
臨也がうっすらと笑みを浮かべながら、静雄の髪の毛をふいてくれる。
どうしてもその顔を見れなくて静雄は俯く。臨也はこつんと静雄の額に自分の額を合わせた。優しく笑っている感触が伝わる。
静雄が小さく息を吐く。自分が今動揺していることはわかっていた。
どうしたらいいんだろう、と静雄は思った。自分はどうしたらいいんだろう。
こういう場面は初めてで、しかも男同士だ。
上司が貸してくれたAVの知識などは役に立たない。
「い、ざや」
小さな声で名前を呼んだ。声が震えてるのが分かった。
髪をふく手が止まって、そのまま優しく抱きしめられる。その身体にそっと腕をまわした。温かな体温が伝わる。
泣きそうだ、と不意に思った。今日はそう思ってばっかりだ。
嬉しいのと切ないのと温かな気持ちと嵐みたいな感情が混ぜこぜになって溢れだしてしまいそうだった。
溢れた気持ちはどうして涙になるんだろう。
静雄はあまり泣いたことはない。大人になってからそんな機会もめっきり減った。怒ってばかりだった。
涙には自浄作用があるという。
だったらあまり泣かないから黒い気持がたまるんだろうか。
こいつもあまり泣かなそうだよな、と目の前の男を見上げる。
けれどその臨也も今は少し泣きそうな顔をしている、静雄にはそう見えた。
それから、悲しいわけじゃなくても嬉しくても泣きそうになるんだな、そんなことを思う。
優しく口づけられて、静雄は泣きそうな気持のまま瞳を閉じた。
もう余計なことは考えなかった。考えられなかった。
臨也の手は優しくて、温かで、それから熱かった。
自分でも触れないようなところまで暴かれて触れられて。
恥ずかしいのに、それすら気持ちいいと思う。
どこも何も隠す必要はないんだな、と静雄は思った。だってもう、俺は臨也のモノだし、こいつも俺のモノなんだから。隠すものも恥じるものもない。
ドロドロに溶けてしまいそうな気持になる。痛いのも気持ちいいのもドロドロに溶けていく。
このまま二人で溶けあって混じり合ってしまうのかもしれない。そう思うくらいに。
濡れた音も、吐息も、ベッドの軋む音も、静雄には届かなかった。
ただ、臨也の声にならない言葉を聞いていた。
好き。
大好き。
愛してる。
口にすれば陳腐な台詞なのに。
胸のどこかに直接届いて、たまらない気持になる。
自分の声は届くのか、届いているのか。
不安に思って臨也を見つめると、臨也はにっこりと笑ってくれた。
そのまま優しく激しく口づけられる。苦しくて気持ち良くて切なくて甘い。
そんな気持ちがとうとう目から溢れ出た。臨也はそれを優しく舐めとる。
しょっぱいね、と臨也が笑ったような気がした。だから静雄はそのまま瞳を閉じる。気持ちがどんどん瞳から溢れ出ていくのを感じた。
苦しい。嬉しい。切ない。愛しい。いろいろな気持ちが溢れていく。
瞳から気持ちは溢れていくのに、口から漏れるのは意味のない音ばかり。
自分の喉を震わす声が甘くて。それから少しだけ、臨也のそういう声も聞きたかったな、と思った。
喉の渇きを覚えて目を覚ます。
身体は重かったが、気分は悪くなかった。
隣で眠る男を起こさないように気をつけて起き上がると、静雄はキッチンへと向かった。
勝手に冷蔵庫を開けるのは気がひけたので、水道の水を飲む。東京の水は美味くないが、静雄はもう慣れてしまった。
ごくり、と飲み干すと、小さな息をもらす。ため息とも吐息ともつかなかった。
なんだか満たされている気がした。すごく。
濡れた口を手で拭うと、静雄は寝室へと戻った。
あのあとシャワーを浴びたので身体は綺麗だったし、臨也がたぶん手加減をしてくれたので辛くもなかった。
けれどなんとなく落ち着かず、静雄はベッドに腰を下ろす。そうして眠る臨也を眺めた。
熟睡だな。静雄はクスリと笑う。深く眠るイメージがないだけに新鮮だった。
その黒い髪を梳き、そうしてその瞼に口づけを落とす。
小さな小さな、密やかな声で名前を呼んだ。彼に届かないように。
けれどそれが魔法の呪文だったかのように、臨也はぱちりと目を開けた。静雄は少しだけ驚く。良く寝てると思ったのに。
「・・・・・・」
赤い瞳が静雄を見つめた。静雄は小さく頷いて隣に潜り込む。
その身体を抱き寄せれば、それはとても温かで。
いつしか深い深い眠りに引き込まれていった。