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泡沫の恋 前編

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 コーヒーの香りで目が覚めた。
 どれくらい眠っていたのだろう。外はもう明るかった。最近の寝不足を取り返すほどよく眠ってしまったらしい。
 今日休みでよかったな、と静雄は思った。仕事だったら、今すぐにでも帰らなければならない。
 けれど明日は出勤しなければならない。やっぱり今日中には帰らなければならないのだ。
 静雄は少しだけ寂しいと思った。離れたくないなんて不思議だ、とも思う。
 ドラマや本の中の恋人たちが『もう離さない』だの『離れたくない』だの言うたびに静雄はいつも不思議に思っていた。
 毎日のように会って、やることやって、それなのに離れたくないなんて。ガキかよ、とも思った。
 けれど今自分が同じことを思っているなんて皮肉な話だ。
 時間や距離じゃないんだな、と静雄はため息をつく。恋人たちにとって、一緒にいることが当たり前で離れているのは異常なのだろう。それを実感する。

「あー、クソ・・・っ」

 がしがしと頭をかきむしる。確かに異常だ。こんなことを自分が考えるなんて。
 落ち着くために煙草でも吸おうか、けれど家主に無許可で吸うのも気が引ける。
 静雄は身体を起こすと、いつの間にかハンガーに掛けられていた自分の服を着た。
 それからコーヒーの香りに誘導されるように、たどり着いた部屋の扉を開けた。

「あら」

 臨也がいると思って開いた扉の向こうには秘書とかいう女性がいた。
 自分で入れたらしいコーヒーを口にしている。
 なんだっけ、名前・・・思い出せねえな。頭がうまく働かないのか、どうでもいいことを静雄は考えた。

「折原臨也ならこの部屋にいないわよ」

 波江は全く動じた様子を見せずに静雄に告げた。すいませんだかなんだかどうでもいいことを言いながら慌てて扉を閉じる。
 振り返ると臨也が笑いをかみ殺していた。

「・・・っ」

 静雄は怒りたいような恥ずかしいような気持になったが、臨也を見ているうちにおさまってしまった。自分にしては珍しいと静雄は思う。
 臨也はそんな静雄に手招きすると、昨夜通された部屋へと向かった。
 静雄がソファに腰掛けると、わかっているかのように灰皿と煙草を差し出される。

「・・・悪い」
「・・・・・・」

 臨也がふるふると首を振る。
 それから彼は自分のためのコーヒーと、静雄に冷たいアイスティーを持って来てくれた。
 長く眠っていたからか喉がまた渇いていたので、冷たい飲み物はありがたかった。
 一息で飲み干すと、煙草に火をつける。
 そんな静雄を臨也は楽しそうに眺めていた。

「・・・仕事」
「・・・・・・?」
「いいのか」

 静雄のつたない問いかけに、臨也はまた首を振った。
 扉の向こうでは有能な秘書が働いているのだろう。かすかな気配を感じる。
 奥の部屋から現れた自分を彼女はどう思ったのか。驚いていなかったが、あらかじめ聞いていたのだろうか。
 だったらなんて説明したのか。友人が泊ってる? だが彼女は、自分たちが友人ではないことを熟知しているはずだ。だったら。
 そんなことをぼんやり考えていると、昨夜のことまで思いだしてしまった。慌てて首を振ってそのことを頭から追い出す。
 けれど赤く染まった頬は隠しようがない。一人慌てる静雄を臨也は笑いながら眺めていたが、ふと立ち上がり何かを持ってきた。
 ことん、と小さな音を立ててテーブルに置かれたのは銀色の鍵だった。
 それから静雄を見つめて、微笑んでから頷く。
 なぜだか静雄にはそれが何と言っているのか分かった。

「・・・ここに?」

 臨也はもう一度頷いた。一緒に住もうよ、そう臨也は言っているのだ。
 静雄は少しだけ考える。ここから池袋まで通うのか、とか、こないだ更新したばっかだな、とか。
 けれどそんなことは雑多なことだった。どうでもいいことだ。
 臨也が本気を示してくれたのなら、自分もそれを行動に出さなければいけない。

「おまえが良ければ、いい」
「・・・・・・」
「でも、本当にいいのか」

 臨也は大きく頷いた。もちろん、そう言っているように。
 静雄はその銀色の小さな鍵を大事そうにポケットにしまった。
 失くさないようにしないとな、と静雄は思う。鍵も、この幸せだと思う気持ちも。
 それから次の約束を交わして、後ろ髪を引かれるような思いで池袋へと帰宅した。

作品名:泡沫の恋 前編 作家名:774