親友の恋
私が意識的に目を背けていた間に、彼女の仄かな恋は、確かな愛に変化していた。彼の何も知らずに、彼女は普通の恋愛をしていたのだろう。積極的に彼女から行動したかどうかは判らない。戦時下の中で彼がいつ職務の為に命を落とすかも知れないと考えれば、彼女が自分の恋を成就させようとしたかも知れない。
少なくとも彼女は彼と想いを通じ合えるようになり、国でもエリートである親衛隊の騎士と伯爵令嬢の関係は、決して忍び会わなければならない身分違いでもなかった。
だからこそ彼女達の関係を疑う者は居らず、国を裏切り、敵に寝返った彼の罪によって彼女が裁かれる事になったのだ。
師や私が、彼が裏切り者の正体を露わにするのは予想していた事だ。私はそれを願っていた。
しかしこの様な結末をも望んでいたかと言われれば、断固として否定する。
戦争の最中で、事態は大きく変化した時があった。それによって敵が敵ではなくなったのは事実だが、それよりも前に彼は逃げたのだ。私が想像していたよりも遙かに卑劣な、あまりにも人として騎士として、そして男としてさえも最低な逃亡の仕方で。
ただでさえも敵前逃亡は、それも城が強襲されている最中での逃亡ともなれば、重罪になるのは誰の目上手も明らかと言える。しかも要領よく私達の目から正体を隠していた彼だったが、最後の最後にミスを犯しもしていた。
彼の残した物の中に、確実な諜報活動の痕跡が出てしまった。いくら功績を挙げていた者であろうと、そうなれば疑いの視界は広がり、彼女の元にもそれが向けられるのは当然の事だったろう。
何より拙かったのは、彼女の家柄だった。
彼女の父親は国の防衛を任されていた。おそらくその情報が欲しくて、彼は彼女に近付いた。そこには欠片の愛情はなく、だからこそ彼はああも簡単に敵国に逃げ帰る事を選んだのだ。
少なくともあの日、激しい攻撃を受ける城に彼女がいる事を彼は知っていた。知っていながら見捨てた。
彼が本当にどんな気持ちで彼女の想いを受けとったのかは判らない。判らないが、逃げたという事実だけで充分だ。
それなのに、彼女は今でも凛として立ち続けている。
想像の域を出ない、いや、耳を塞ぎたくなるような下品な中傷じみた尋問にも、彼女は冷静に聞き、同じ言葉をハッキリと言い続けた。
「いいえ、私は彼を愛していますが、父の役目に関わる事は口にしておりません。敵国の将を愛したのではなく、愛した彼が敵国の将でした。私の事実はそれだけです」
もう自分が裏切られていた事を自覚していながら、彼女は今もまだ愛していると言う。
せめて彼に騙されていたと言えば、まだ許しの道はあっただろうが、周囲に促された時にさえも決して言おうとしなかった。
あまりにも愚かで頑なな、純粋な気持ちで。
それでも彼女の性格を知っている者なら、彼女が嘘を言っているのではないのは分かり切っていた。
彼女は彼に情報は流していない。それは彼女の父が携わっていた事と、彼の行動を重ね合わせてみれば明白な事でもあった。
しかし裁判は早々の決着を見なかった。
何故ならこの裁判が、彼女を裁くのではなく、彼とこの国の行く末を決定づける為の、見せしめだったからだ。
戦勝ムードに浮き足立った混乱期の中で、国はこれから大きな転換を迎えなければならない。だからこそ何より規律に弛みを生じさせてはならず、ハッキリとした姿勢を国民に見せなければならない時期だった。
敵国の者と通じればどうなるか。国を裏切るという事がどの様に重い罪になるのかを、彼女を裁く事で教える為に、彼女の地位と罪はあまりにも好都合であった。
その思惑は、私自身が証言台に立たされた時に、全身が震えるほどの醜悪さで知らしめられ、私はその意思に逆らう術を持たなかった。
私が最初に彼の事を彼女に告げていたなら、彼女は裁かれる事はなかった。
彼女の親友としての務めを第一に考えていれば、きっと彼女は過ちを犯さなかった。
今となって過ぎる後悔の念に押し潰されそうになり、何度裁判所の前から帰ろうとしたか判らない。
だが私までもが彼女から逃げてはならない。彼女を裁きの元へと追いやったのは、私も同じだと思えば、決して目を背けてはならなかった。
もしも彼女の罪が死して等しいと告げられれば、私もその言葉を受け止め、同じ瞬間を待とうと思っていた。
それが私に与えられるに相応しい、親友への裏切りの罰になるだろう。
そう思っていたのだ、私は。
彼女はやはり私を違っていた。
小さく弱い私と違い、誰よりも高潔な強い魂を胸に秘めていた。
「裁判長様、一つだけお伺いしても宜しいでしょうか?」
彼女が初めて自らの意思で発言したのは、これから判決が言い渡されるという時だった。
「子たる私の罪は、父や母の罪ともなるのでしょうか?」
彼女はとても落ち着いた声で伺い、裁判長は首を横に振った。
その瞬間、彼女の緊張が消えたのを、彼女の僅かに下がった肩が私に教えた。
「でしたら裁判長様、私に罪があるというなら、それが彼を愛した事だけに与えられる罪であるなら、如何なる罰でもお受け致します。しかし、私のお腹に宿る命には何の罪もない事を、今ここでお約束して頂けないでしょうか」
一瞬の沈黙の後に沸き起こったざわめき。
けれども私の耳には遠く、私の目に映るのは堂々と立つ彼女の姿だけ。
「私は自分の想いを彼に語る事しかできませんでした。彼を好きになり、彼を愛して、彼の子を授かる事しか出来なかった罪深い者です。そしてその罪によって裁かれるのでしょう。しかしこの子は、まだ誰とも話をする事は出来ず、誰に触れる事も出来ず、誰に想いを語る事も出来ません。どうか裁判長様、この国に慈悲の気持ちが宿っているのなら、この子に罪はないと仰って下さい」
動揺や驚愕に包まれる室内で、彼女の父は蒼白の面持ちで立ち竦み、彼女の母は押し殺せなかった嗚咽を吐き出しながら泣いていた。
彼女は落ち着いて、この部屋にいるのがまるで自分と裁判長だけかの如く、ただ落ち着いて、これまでと何も変わらぬ彼女らしく語るだけだった。
切り札。罰から逃れる為に、罪の無い子供を利用した。
いいや違う。ましてや嘘でもない。
柔らかな眼差しで、穏やかな気配であっても、彼女もまた厳しさの中で生き、背負う重みを知り、この世界の歪みも見てきた者の一人なのだ。
人々の注目を受け続ける中で、多くの謗りを浴びせかけられても怯まずにいれば、もっと広くに伝えられていく。広がれば広がるほど、それは下の者達の間にまで届き、子を持つ女達にも伝えられる。
子供を護る為だけに、彼女はひたすらその時を待ち、そして最後の告白に臨んだ。
何と言う強さなのだろう。
この最後の瞬間とも言える中でも、いや、だからこそ彼女は彼女であり続けた。ずっと以前に彼女が口にしたように、彼女は全身で子を護ると言った約束を叶えようとしている。
駆け引きでも何でもなく、ただ彼女は彼女に与えられた務めを全うしようとし、それだけの強さが彼女にはあった。
誰にも敵うはずのない、母としての純粋な強さを携えながら。