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【けいおん!続編】 水の螺旋 (第五章) ・上

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「恨んでいたかどうかは分からないが、それに近いよくない感情を持っていたことは確かだろうな。石山教授に無断で、緊急集会を開こうとしているのもおそらくそういうことだ」
 凜の言葉に、唯はキョトンとした顔で訊いた。
「えっ、何でそれで無断で集会を開くの?」
 凜は心底呆れた。まさか、ここまでニブいとは。
「…やっぱりこういう話は、真鍋さんにした方がいいな」
 凜がそう呟くと、唯は苦笑いを浮かべた。
「そうだね。私こういう話は弱いから…」
「まあ、君はこの場所で直感したことを、僕に話してくれさえすればいい」
 凜はそう云って、今度は海の方へ歩いて行った。唯もそれに続く。
近くに来てみると、それほど静かな海というわけではなかった。小刻みな無数の波が、水の上を絶えず走っている。それに、海水も何だか澱んでいて嫌な色だ。少なくとも、この海で海水浴をしたいとは思わない。
「この海を見て感じるものは?」
 凜は唯に訊いた。
「…欲望かな」
 唯はぽつりと答えた。
「欲望?」
「うん。水が清らかじゃないのと、波がせわしなく流れてる。まるでドロドロした欲望に、心が荒れているみたい」
 確かに、そのようにも見える。一般に「生命の母」と形容される海だが、この場所に横たわる海は何とも毒々しい色彩をしており、よこしまな欲望を多分に含んでいるとも思える。もっとも、この世界の色彩に色鮮やかなものはなく、海だけが澄んだ色をしていれば、それはそれで奇妙だ。
「ん?」と云って、唯は瞳を凝らした。海の底の方に、何かが見えたような気がしたのだ。水の色は濁っていて、奥の方まではよく見えない。だが、何か影のようなものがぼんやりと映っていることは分かった。その影が、だんだんとこちらに近づいてくる。それに伴って、小さく見えていたものが少しずつ大きくなり、ぼんやりとしていた輪郭が徐々にくっきりとしてきて、その形がはっきりとしてきた。そして、そのはっきりとした形を見た瞬間、唯は驚いた。それはニヤリと笑った二葉 繁の顔だった。
 「うわっ!」と唯は思わず叫んだ。その瞬間、海の中から白い手がニュッと出てきて、唯の足を掴んだ。唯はその手に足をとられて、その場にしりもちをついた。見れば、不気味な笑顔をたたえた二葉が、陸へ上がってくる。
 唯は二葉の顔めがけて手をかざした。「やっ!」という掛け声とともに、波動が唯の掌から飛んだ。白い手は唯の足から外れ、二葉の顔は水の底へと沈み、放った波動が海の上を水飛沫をあげながら駆けて行った。すると次は、大きな津波が起こり、唯たちに襲いかかってきた。すぐさま、凜は唯をかばって、彼女の上に覆いかぶさった。そのままふたりは、激流に呑み込まれた。凜がふんばったおかげで、ふたりは海に引きずり込まれずに済んだ。
「何だ、この水。気持ち悪い」
 凜が呟いた。全身にかぶった水の感触は、云いようもない気持ち悪さだった。心の中にまでべたべたした感触が浸透して来るようだ。
 海が再び荒れだした。海水が見る間に渦を巻いて、天高く昇ってゆく。
「唯、走れ!」
 凜は唯の手を取って、走り出した。そこへ、天高く昇っていたスクリューが、襲いかかってきた。陸が激流に呑み込まれてゆく。どんなに必死に走ったところで、ふたりもすぐに呑み込まれてしまうように思えた。
 もう殆ど激流に呑まれてしまうかという時、凜は唯の手を引いているほうの腕をありったけの力をこめて前方へ振り払った。唯は半ば投げ飛ばされるような形で、暗闇の空間の入り口に転がり込んだ。次の瞬間、凜の身体を激流が呑み込んだ。


 2


 唯はすぐさま後ろを振り返った。激流はこの空間までは入ってきていない。ある夢の世界を構成するものはその場所でしか存在できず、したがって他の夢の世界や唯が今いる暗闇の空間までは入ってこれないのだ。
 しかし、唯は自分の無事をただ喜ぶというわけにはいかなかった。凜はむこうの世界にまだいて、しかも激流に呑み込まれてしまった。
「凜くーん!」
 唯は叫んだが、当然返事は返ってこないし、凜の姿も見えない。
 こうしていても埒が明かない。唯はもとの世界へと戻ることにした。凜の無事を願いながら。
 暗闇の空間を抜け、まぶしい光の中に出た。その瞬間、唯は目覚めた。いつもの病院だ。起き上って、はっと横を見る。そこには、眠ったままの凜がいた。
「凜くん?」
 唯は声をかけてみた。凜は目を覚まさない。
「ねえ、凜くんってば!目を覚まして!」
 唯は凜の身体を揺すった。しかし、彼の目は閉じられたまま、唯の行為に何の反応も示さない。
「嫌だよ、凜くん。戻って来てよ!」
 唯は何度も凜の名前を呼んでいた。

 ふと気づくと、凜は水の中にいた。激流に呑まれ、波の引いてゆく勢いで海に引きずり込まれたらしい。いったい自分は海のどのあたりまで引きずり込まれたのか、見当もつかない。
 自分が助かるだろうか、と考えてみる。しかしすぐに、そんなことどうでもいいか、と思った。現実世界に大した未練はない。生物学の未知の領域を研究して解明したいという希望はあったが、成し遂げなければ死んでも死に切れない、というほどでもなかった。また向こうの世界に、これからも一緒に居たいような友人や恋人がいるわけでもなかった。彼の人生において、人間関係はあまりに希薄なものばかりであり、またより深い関係を自分から求める気もなかった。自分のことを大切に想ってくれる人がいるにはいるようだが、それは向こうが別の人を見つけてくれればいいだけの話だ。
 精神世界での死は、魂の死を意味する。すなわち、現実世界においては、肉体が生きているのみの存在となる。教授に理不尽な要求をされたり、周囲の人間から妙な目で見られながら生きるよりは、そのほうがよっぽど楽だとも思った。
 唯を現実世界へ送り届けたことが、自分の最後の仕事でいい。凜はそう思って、ただ心を落ち着けていた。ただ、魂が溶けてゆくのを待つように。意識が次第に遠くなってゆく。精神の死はもうすぐそこまで来ているようだ…。
「……」
 ふいに、遠くから誰かの声が聴こえた気がした。ただ、何を云っているのかも、誰の声なのかも分からない。
「……!」
 甲高い声。声の主はどうやら女性らしい。何だ?と思っているうちに、また声がした。
「…凜くん!」
 声の主は自分の名を呼んでいた。しかも、何となく聞き覚えのある声だ。
「凜くん!」
 そうだ、これは唯の声だ!そう思った瞬間、凜の知覚が再び鮮明になった。
 まさか、まだ唯は向こうの世界に還ってないのか!?
 身体には再び力が漲ってきた。凜は必死で水を掻いて泳いだ。どれだけ泳いだか、凜はようやく陸に上がった。しばらく息をついてから、彼は歩き出そうとした。
 そこへ、ガシッと肩を掴まれた。凜の身体はビクッと硬直した。何者かが、背後からまとわりつくように抱きついてくる。凜は後ろを振り返った。すると、自分の眼前に、青白い顔をしてニヤリと笑った二葉の顔があった。
「どこへ行くんだい。帰しはしないぞ」
 二葉は不気味な声でそう云った。
「さあ、海へ戻るんだ。お前の魂を宇宙の中に溶け込ませてやるよ」