【けいおん!続編】 水の螺旋 (第五章) ・上
二葉はヌルヌルした手で凜の首筋をなぞった。すると、凜の表情がみるみるうちに険しくなった。
「俺に触るな!」
凜はそう叫び、爆風を飛ばした。凜の周りの空間が歪むほど激しい怒りを含んだ爆風だった。二葉が自分の身体から離れたことを確認して、凜は暗闇の空間への入口へ全力で走った。
暗闇の空間に駆け込んだら、凜はありったけの声で叫んだ。
「唯!どこにいるんだ!!」
「凜くん!」
遠くで唯の声がする。凜は声のするほうへ歩いた。
「凜くん!!」
歩いていると、唯の声が徐々に大きくなってきた。唯のもとへ近づいている。
そして、凜は再び明るい世界へ出た。
「凜くん、目を覚まして!」
間近で唯の声が聴こえた。目を開けると、そこには涙を浮かべて自分の身体を揺すりながら、名前を呼ぶ唯の姿があった。
凜が目を開けたのを見て、唯は一瞬笑顔になり、そして顔をくしゃっとさせて、凜の身体に抱きついて泣きだした。
「……るな」
凜がぼそっと呟いた。
唯は凜が何と云ったのか分からず、「えっ?」と聞き返した。
「…俺に触るな」
唯は凜の言葉に一瞬耳を疑ったが、彼の言葉を心の中でもう一度反芻して、
「ひどいよ、凜くん…」
と云って凜の身体から離れ、凜とは逆の方向に身体を向けてうずくまった。
凜は上体を起こした。
「唯、お前、戻れてたんだな」
凜の言葉に、唯は鼻をすすりながら答えた。
「凜くんが助けてくれたんじゃない。でも、自分だけ助かって、凜くんだけ死んじゃうなんて嫌だった。だから、必死で起こそうとしたのに…」
唯は凜を睨んで言葉を続けた。
「…凜くんなんて、あのまま死んじゃえばよかったんだ」
そう云うと、唯はまた悲しそうな顔をして、膝元に顔を埋めた。
「でも、凜くんが死んじゃったら、姫子ちゃんに何て云えばいいんだよ」
唯はその場にうずくまって、すすり泣いている。
「いい加減、泣くのはやめろ。今回のダイブで重要なことが分かった。あとは、どうするか検討する必要がある」
凜は突き放すように云った。唯はまた悲しそうな顔をした。
「凜くん、どうしてそんなに人の気持ちを考えようとしないの?それとも、考えられないの…?」
唯の言葉に、凜は少しうんざりしたような顔をした。
「ああ、分かった。確かにあの時、僕は死ぬところだった。けれど、唯の声が聴こえたから、戻ってこれた。唯、お前のおかげだ」
「そんな言葉を求めてるんじゃないよ…」
「どうすればいいんだ。どうすべきなのか、僕には本当に分からない」
「他人と少し、気持ちを重ねるだけでいいのに。凜くんはそれができないんだね」
唯がぽつりと云ったのを最後に、ふたりの間には沈黙が訪れた。外からは、ザーザーという音が聴こえてくる。どうやら、雨が降っているらしい。
3
二葉は心の奥で、石山を憎んでいた。おそらくそれは、羨望や嫉妬からくるものなのだろう。自分が予言した精神世界だったのに、その存在を石山は研究者として立証し、教団の中でも一番の実力者になっている。そのことが許せなかったのかも知れない。
そして、彼は石山を憎むあまり、精神世界の中に自身の夢や欲望を反映させた世界を作りあげてしまった。感情があまりに大きくなった状態で夢の世界へ入りこんでしまうと、心そのものが精神世界へ呑み込まれてしまうことがあるのだ。その時の感情は、だいたいマイナスな感情であることが多い。二葉もそのような経緯で、マイナスの心でのみ構成されたもうひとりの自分を、精神世界へ形成してしまったのだろう。
さらに彼は、教団の人たちを巻き込んで、なにかよくない企みごとをしている。おそらく、緊急集会という形で信者たちを集め、彼らを生贄にして、自身の夢の世界をより大きなものにしようとしているのだ。つまり、他人を犠牲にして、自分の力の強大化を図ろうとしているといえる。精神世界と現実世界とは大きくリンクしているので、二葉の力が精神世界で大きくなれば、それは現実世界にも影響されるだろう。そのようにして、二葉は自分自身の権力を石山より誰より強いものにしようと謀っているのかも知れない。
これが、彼の夢の世界へダイブして、推理したことだった。
二葉が現実世界でやろうとしていることや、唯たちが彼の夢の世界で感じたことを総合的に考えて、最も合理的な解釈であった。
「…でも信者たちを生贄にしてどうするのかしら?」
ムギの問いに唯が答えた。
「多分、人々の心、『魂』といってもいいかも知れないけれど。それを吸い取って、そのエネルギーをあの人の世界へ放出する。人々の魂のエネルギーで充満した世界は、より広大に、より強固なものになる。結果、二葉さんの力は、より強大なものになる」
「魂を奪われた人たちはどうなるんだ?」
今度は澪が訊いた。
「魂の一部を吸い取られるか、全部を吸い取られるか、それにもよると思うけど。一部を吸い取られた場合は、現実でもその部分を失くしてしまうだろうね。夢を吸い取られた人は夢を持てなくなるし、愛を吸い取られた人は、愛そのものを失ってしまう。全部吸い取られちゃったら、おそらくこの世界でも精神的には生きてないことになる。つまり、『心』そのものを失くしちゃう」
「文字通り、“生贄”ってワケね」
和の言葉に唯は頷き、力強い口調で云った。
「そんなことは許せない。絶対に阻止しなきゃ」
「またダイブするんですか?」
梓が訊いた。唯はまた頷く。
「…許してくれる?」
唯は憂に向かって、おそるおそる訊いた。唯にとって、憂は妹であり、一番の理解者であり、保護者のような存在でもある。したがって、彼女の許しを得なくては、後味が悪いのだ。
「お姉ちゃんの好きにすればいいよ」
憂は笑顔で云った。
「だって、お姉ちゃんの決めたことだもん。私には何も云えないよ。お姉ちゃんが一番、正しいと思うことをすればいい」
「ありがとう、憂」
唯も安心したように表情がほぐれた。
「でもなぁ…」
釈然としない顔で律が云った。
「もとはといえば、そんな宗教にハマった人たちが悪いんだろ。そんな人たちが勝手にまいちまった種なのに、その尻拭いのために唯があえて危険を冒すのは、何かおかしいよななぁ…」
「りっちゃん、それは違うよ」
唯は真面目な顔を律に向けた。
「私、何か信仰しているワケでもないし、詳しいことはよく分かんないけど、要は宗教って人々を正しい道に導くための教えだと思うの。正しい道を歩くってことは、“幸せになる”ためにするんだと思う。けれど、中にはそれを利用して自分の力を高めようとしている人がいて、そのために犠牲になる人がいる。これって、本来の宗教の姿じゃないよ。私は、幸せになりたい人々を食い物にして、大きくなろうとする人は許せない」
「そうか…?ま、それは唯の考え方次第だし、私たちも唯の決めたことには全面的に賛同するけどさ」
「でも唯、あなたにも幸せになる権利はあるというのは忘れないで」
律に続いて、和が云った。唯は、力強く頷いた。
「いずれにせよ、だ」
テーブルに集まっていた他のメンバーに対し、窓際でひとりたたずんでいた凜が口を挟んだ。
作品名:【けいおん!続編】 水の螺旋 (第五章) ・上 作家名:竹中 友一