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泡沫の恋 後編

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 あー腹立つ。
 そう呟きながら静雄は寝台から下りた。
 それから臨也を振りかえることなく、部屋を出て行った。
 我に返った新羅が慌てて静雄を追いかける。
 静雄どこ行くの! 帰るんだよ。 無茶言わないでよ!! これ以上あいつのいるところにいられるか!
 それらの言葉が臨也の耳に流れてくる。
 臨也は、何も言えずにその場に崩れ落ちた。もう何も考えたくはなかった。
 ただ、ひとつだけわかったことがある。
 魔法の時間は、終わったのだ。


 静雄に出された診断は頭部外傷による逆向性健忘。つまりは記憶喪失、だった。
 部分健忘らしく、自分が誰であるとか、どこに住んでいたとかは思い出せる。
 ただひとつのことに関して以外は。
 この二人が過ごした3ヶ月。その記憶だけがすっぽりと抜け落ちていた。
 つまり静雄の中で、あの日々は『なかったこと』になった。
 そんな新羅の淡々とした報告を臨也は黙って聞いていた。
 臨也はもう何も言わなかった。何も言えなかった。
 静雄の中で、臨也という『恋人』は存在ごと拒否されてしまった。
 これ以上、何が言えるというのだろう。
 多分ね、と新羅は語る。

「あの3ヶ月、キミの声を封じているというひそかな罪悪感を静雄は感じていたと思うんだ。
 彼はそれを、きっとすごく後悔していた。なかったことにしたいと思ってた。
 その『なかったことにしたい』という潜在意識が、キミの声を聞いたとたんに、変な風に作用して、その『3ヶ月』自体を『なかったこと』にしちゃったんだと思う」

 推測にすぎないけどね、と新羅はため息をつく。
 もともと、脳外科や心療内科は彼の得意分野ではない。すべては架空の理論でしかなかった。
 もっときちんと検査させるかい? と新羅は言ったが、臨也は首を振った。
 検査の結果、他に異常がないことは判明しているのだ。これ以上は、するだけ無駄だった。
 あの日、退院すると言い張る静雄をなだめて新羅はしばらく検査入院させた。
 臨也はショックから立ち直れないまま、それでも静雄の身の回りを整えた。
 あの3ヶ月を覚えていないのならば、彼はこの新宿には帰宅しないだろう。
 静雄の荷物を整理し、今まで住んでいた池袋の部屋へ戻した。
 こうなることを自分はわかっていたのだろうか。
 静雄の部屋は、3ヶ月前とほぼ変わらない。臨也はその部屋を借りたままの状態にしておいた。家電類もそのままだ。
 更新したばかりだし、何かあると困るし。落ち着いたらひきはらえばいい。いろいろ言い訳してずるずるとその部屋を借り続けた。
 わかっていたのかもしれない。いつか、この時間に終わりが来ることを。
 そうだ、自分はどこかで、わかっていた、そしてそれにおびえていたのだ。だからこの部屋は臨也の『保険』だった。
 結局臨也は自分を一番信用できなかった。いつか自分は静雄を傷つけてしまうと思っていたから。
 だから、この部屋を借り続けることで、いつ終わりが来てもいいように備えていた。静雄をいつでも解放してあげられるように。
 終わりは予期せぬ形で予想できない結末になった。それだけのことだ。
 この部屋で静雄を抱きしめたのはついこの間のことだった。ふと思い出す。温かな唇の感触。
 抱きしめて、口づけた。
 静雄が欲しかった。すぐにでも抱いてしまうつもりだった。けれど。
 静雄が自分を受け入れて、臨也を臨也であると認めた上でそれでも受け入れてくれたという事実に、臨也は胸がいっぱいになってしまった。
 それがある意味奇跡のようなことであると、自分はその時わかっていた。だから。
 だから抱きしめてそのまま、それだけで満たされてしまった。満ち足りるという感情を初めて知った。そしてそれを自分が相手にも与えられていると知った。嬉しかった。

 だから、これから二人の間で積み重ねていけると思ったんだ。
 気持ちも身体も愛情も時間も思い出も喜びも悲しみも幸福も・・・記憶も。

 だったら焦ることなんかない、そう素直に思った。
 大切に大切にしようと思った。
 もう絶対に2度と傷つけない、そう決めた。

 ・・・なのに。

 罪悪感なんか感じてほしくなかった。
 いや、最初は思っていた。声を犠牲にしたことに、静雄は一生囚われればいい。
 自分に罪悪感を感じて、がんじがらめに縛られてしまえばいい。
 これでもう、静雄は一生自分のモノだ、と。
 蜘蛛の巣にかかった哀れな蝶を思うような、暗い感情でいっぱいだった。
 けれど。
 満たされてしまった。心という入れ物を、静雄が温かなもので満たしてくれた。
 これ以上何を望めというのだろう。
 静雄は真摯に、自分に向きなおってくれた。
 臨也のすべてを受け入れて、全部を臨也にくれた。
 罪悪感に裏打ちされた、打算的な関係ではなく。
 静雄は心から、臨也を好きになろうとしてくれた。なってくれた。
 だから、声が出なくなっても臨也は後悔していなかった。
 だってもう、そんなことはどうでもいい。きっかけにすぎない、とすら思った。
 思って、いたのに。
 静雄はずっと自分に罪悪感を感じ続けていたのだろうか。

「シズちゃんの馬鹿」

 俺のことなんかどうでもいいのに、俺の声なんかどうでもいいのに。
 それでもシズちゃんは優しいから、自分の出した条件で苦しんで。

 それでも、新羅に魔法を解け、とは言わなかった。
 自分たちの間に『言葉』が戻ることを、恐れてもいた。
 つまりそれは、臨也は静雄に信用されてなかった。そういうことになる。
 多分それが、一番ショックで一番悲しい。
 けれどそれは仕方ない。臨也は自分で自分を一番信用できなかったのだ。そんな人間が他人に信用してもらえるはずがない。
 自業自得。だからこれ以上静雄には何も言えない。
 信じてもらえないことが悲しいなんて、今の静雄に言っても仕方ない。言える立場ではない。
 今の臨也にできることは、3ヶ月前の『日常』に、静雄を帰すことだけだった。
 いつか、と新羅は言った。
 確実ではない、けれどいつか。
 静雄の記憶は、戻るかもしれない。
 健忘が一時的なものなのか、それとも一生戻らないのか、それはわからない、と。
 だったら、一緒に暮らしているうちに戻るかもしれないよ。
 そう告げる新羅に臨也は自嘲気味に笑って見せた。

「俺は、新羅が思っているより弱い人間だよ」

 だから、嫌がる静雄とともに暮らし続けることはできない、と呟く。
 静雄にとっては繋がった、地続きの10年かもしれないけれど、臨也にとっては繋がった10年ではない。
 静雄にとっては空白の3ヶ月が、臨也にとって一番大事で大切な時間だった。
 その3ヶ月が満たされていただけに、臨也が感じる空虚は果てしないものだった。
 もうあの瞳は自分を映さない。拒絶しかされない。それが分かっているのに。
 このまま一緒に居続けることは、できなかった。

「恋が叶わなかった人魚姫は、海の泡になって消えるんだろう?」

 だから俺もシズちゃんの中で泡みたいに消えればいいんだ。
 そう臨也は小さく呟いた。
 好き、大好き、愛してる。今でも、一番。好き。大好き。愛してる。
作品名:泡沫の恋 後編 作家名:774