泡沫の恋 後編
「どこへ行くの?」
書類から顔も上げずに有能な秘書は問いかける。
事務所を移すとかで、ただでさえ忙しいのにそれ以上に仕事は溜まりがちだ。
最近、雇い主である人間が精彩に著しく欠けるからに他ならない。
波江は何が起こったのか詳しくは知らない。
ただ彼女が事実として認識していたのは、雇い主がしばらく仕事を休んでいる間に声が出なくなっていたこと、
それと同時に雇い主の天敵であるところの『平和島静雄』が移り住んできたこと、そしていつの間にかいなくなったこと、雇い主の声が戻ったこと、それだけだ。
それに伴い仕事の種類が変わってきたことも波江は付け加える。
声が出ないというデメリットを払拭するかのように、最近の仕事は情報屋というよりはデイトレーダーや投資家に近かった。
もとより情報通であるが故の情報屋である。こういった仕事は案外彼の性にあっていたようだ。
それにこれならば拘束時間が限られる。情報屋のように、昼夜関係なく呼びだされることがない。
だから最近波江は、証券取引が始まる朝9時くらいにここへ来て、証券取引が終わり、それ以外の事務処理を済ませた6時には上がるという普通のOLのような勤務状況だった。
雇い主も遅くとも8時前には仕事を終わりにしていたようだ。そして、帰宅する彼を迎え入れて。
そうやって勤務状態を変えるほど、二人の時間を雇い主は大切にしていた。
二人がどういう関係だったのか、波江は知らない。興味もなかった。
けれど、その3ヶ月は雇い主にとって大切な時間であったことは予測できた。
雇い主が、池袋最強をどのような感情で傷つけ、罠にはめていたのか、波江には推測しかできない。
けれどその推測は当たっていたようだ。寝ぼけた顔で事務所の扉を開けた彼を見た時そう思った。
ただ、良かったわね、と柄にもなく言葉にしてしまったのは不覚だった。
けれど雇い主はいつものように調子に乗ることもなく、ただ小さく笑った。
その顔を見て、波江はなんだかとても弟に会いたくなった。大切なものを慈しむ、そんな顔だったから。
そしてその彼がいつの間にかこの部屋を出て行き、それを忘れようとするかのように事務所を移動する、と雇い主が言い出した時。
波江は初めてこの雇い主のことが少しだけ心配になった。
正直言って、腹を刺された時より心配に思った。それでも弟に動かす感情の100分の1にも満たなかったが。
事務所の移転に伴い、仕事も前のようなものに戻っていった。
だから今現在、路線変更時の仕事と、今までの通常の仕事、それから移転に伴う事務的処理など、仕事は山ほどあるというのに。
精彩を欠いた雇い主は、気づけばふらふらとどこかへ消えてしまう。もう1週間になる。
波江がいる間に戻ることもあれば戻らないこともあった。
波江はすることを済ませると勝手に帰ってしまうので詳しくはわからないが、どうやら夜は寝ないで仕事をしているようだった。けれど著しく能率は悪い。
今も明らかに寝不足の顔で、波江の問いかけにも答えずに雇い主は出て行ってしまった。波江はため息をつくと、仕事に没頭する。
波江にとって、今日は弟に会うという重大なイベントがあるのだ。
これ以上は雇い主の判断がなければできない、という状態まで仕事を終わらせると、波江は雇い主が戻らないままの事務所を後にした。
そして池袋へと向かう。そう言えば平和島静雄は池袋に戻ったのかしら。ふと思う。
ならば雇い主も池袋にいるのかもしれない。また命がけの追いかけっこでもしているのかしら。痴話喧嘩もいい加減にしてほしいわね。波江は歩きながら心の中でそう呟いた。
「あら」
噂をすれば影、というが、心の中で思い描いていた男が目の前を歩いていた。
平和島静雄。
不機嫌そうに煙草を吸いながら、波江のほうへと歩いてくる。
「おい、あんた」
「何かしら」
「臨也、見なかったか」
波江は首をかしげる。やっぱり池袋に来ているのかしら。まったく、この忙しいのに。
こちらが探したいくらいだと波江は告げると、静雄は「悪かった」と呟いた。
「最近あいつの気配はするのに、まったく姿を見せやがらねえ」
余計にイライラすんだよ、と言いながら煙草の煙を吐き出した。波江のいない方向へ。
相変わらず変なところで気を使う男ね。波江はそう思う。あの部屋にいるときも、波江がいる場所では煙草を吸おうとしなかった。
だからつい聞いてしまった。もうあそこへは戻らないつもりなの? と。
どうでもいいことを聞いてしまった、と波江は後悔する。痴話喧嘩なんか放っておけばいいのに。
けれど意外なことに、目の前の男はおかしなものでも飲みこんだような顔で「は?」と聞き返してきた。
何のことだ? と顔に書いてある。その顔は、とぼけている風でもない。どういうこと? 波江は不思議な気持ちになる。
そしてそれ以上は何も言わずに、失礼するわ、と彼の前から去った。
どういうこと?
波江はそれでも少しだけ思った。
波江は医療従事者ではないにしろそれに近い仕事をしてきた。
だから、目の前の男がとぼけているのかそうでないのかくらいは、身体の反応を見ればわかる。
あれはとぼけているわけではないようだった。それならば。
同居していた平和島静雄は今の平和島静雄とは全くの別人か、それとも。
まったく、何があったっていうの?
けれど波江はそれ以上考えなかった。待ち合わせ場所に弟の姿を認めたからだ。波江は蕩けそうな気持で最愛の人に駆けよっていった。