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泡沫の恋 後編

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 どういうことだ?
 静雄は波江の言った一言が気にかかって仕方なかった。

 あそこへは戻らないつもりなの?

 確かに臨也の秘書はそう言った。
 どこへ? どこへ戻るというのか。
 最近、静雄の周りはおかしなことばかりだった。
 目が覚めれば3ヶ月以上経過していた。それなのに、自分はその間きちんと仕事に来ていたという。
 そういえば1日だけ休んだな、と上司は言った。それから、なんかいいことあったみたいな感じだったけどな、とも言っていた。身に覚えが全然ない。
 目が覚めて以来、新羅は何か言いたげな顔をしているし、セルティは腫物を扱うような感じだし。
 それに、自分の部屋にも違和感があった。
 眠りなれた布団なのになんだが居心地が悪いし、冷蔵庫の中には未開封のままかなり日付のたっているデザートが入っているし、それから。
 買った覚えのない避妊具があった。もちろん未開封だ。上司にでももらったのだろうか。
 服や雑多なものの配置もなんだか違った。身に覚えのない服や小物も増えていた。
 一体3ヶ月の間に何があったというのか。
 それから一番困ったのは、夜眠れないことだった。
 3ヶ月も寝てたからかな、と最初静雄は思ったが、そういうことではないらしい。
 夜になると、なんだか胸に穴でもあいたような気持になる。
 とても静かで、それは当たり前のことなのに、それに耐えられない。
 同じ沈黙でも、もっと心地よかったはずなのに。どこかでそう思う。
 こんな冷たい場所ではなくて、もっと温かなところで眠っていたのに。
 心のどこかがそう思うのだ。
 言葉にすればそれは簡単だった。寂しい。淋しいのだ、自分は。さみしくて仕方ない。

 何も失くしてなどいないのに。
 何も変わってなどいないのに。

 寂しくて、泣きそうなほど淋しくて、眠れない。ひとりでは、眠れない。
 寂しいと感じていることは伝えず眠れないことだけを新羅に相談すると、怪我の後遺症かもね、と薬をくれた。
 それを飲んで、夢も見ずに眠って。それでも。
 朝になると涙を流している自分に気づく。
 おかしい。なんで自分は泣いているのだろう。思い出せないけれど何かがとても悲しかった。思い出せないことが悲しかったのかもしれない。わからない。
 少し頭が痛くなってきた。静雄は思考を止める。それにしても、と静雄は思う。
 今の女は、誰だ。
 心のどこかに、あれは折原臨也が雇っている秘書のような存在だ、というデータはある。
 けれど、自分はあの女に会った覚えがない。存在は知っていたが、間違いなくこの女性だ、と言いきれるほど見覚えがあるわけではなかった。
 それなのに。
 自分はかなり離れた所から彼女を見かけ、迷わず話しかけた。臨也の秘書だという認識を持って。
 どういうことだ?
 もう一度静雄は考える。
 覚えのない記憶、感じる違和感、過ぎた時間。
 俺の身に覚えのない3ヶ月に一体何があった?
 何か、があったのだろう。けれどそれが思い出せない。
 思い出さなければいけないような気がするのに。

「あー、クソ・・・っ」

 考えてもわからないことはこれ以上考えないようにしよう。
 静雄はそう決めると、池袋の雑踏の中へ戻っていく。
 そしてその視界の隅に、一瞬黒い姿を認めた。

「・・・・・・臨也ああああああああっっっ!!!!!!」

 瞬時に分かった。彼だと。
 大嫌いで憎くて死んでしまえといつも願う彼が、確かにここにいる。
 胸が躍った。
 このところ気配は感じるのに本人はいなかった。落ち着かない。一体今度は何をたくらんでいるのか、気になって仕方なかった。
 早く捕まえなければ、早く早く。何か、が起こる前に。何、も起こらない前に。
 けれど何か、が。おかしいと思っていた。
 わからないけれど、不安があった。漠然としているのに確かな不安。
 このままではいけないと焦るのに、どうしたらいいのか分からない。
 わからないまま、静雄は臨也を追いかけていた。その瞬間だけ、何も考えなくても済むような気がして。
 そうして気づけば路地裏に臨也を追い詰めていた。

「もう逃げられねえなぁ、臨也ぁっ」
「そうだね」

 臨也はあきらめたようにため息をついた。
 今日は、何かがおかしい。
 いつものこの男なら、こんな簡単にあきらめはしない。いや、それどころか、こんなに簡単に追い詰められたりもしないはずだ。
 おかしい、何か企んでいるのか、それとも。
 くだらない、静雄は頭を振る。そんなことはどうでもいい、この目の前の男を今は。
 つかんでいた標識を振りかぶり、臨也めがけて振りおろす。いつものことだ。
 きっとこの男は逃げるだろう。それとも反撃してくるのか。そうしたらまた、追いかけるだけだ。いつものように。
 いつものように? 本当にそうだろうか。これが『日常』だったのだろうか。
 おかしい、と思う自分と、ずっとこのまま何も変わってない、と思う自分がせめぎ合っていた。
 そうやって考え事をしている分だけ、振りおろす力はいつもより弱まっており。
 結果的に、すんでのところで止めることができた。

「・・・何で避けねえんだ」

 静雄は吐き捨てるように呟いた。
 振り下ろされる標識を、ただぼんやりと臨也は見つめていた。避けもせず。
 それを好機ととればよかったのに、気づけば自分はその手を止めてしまった。
 額ギリギリでとどめられた標識を見て、臨也は寂しげに笑う。

「避けないほうがいいと思って」

 俺を殺したいんでしょう? シズちゃん。
 だから、シズちゃんに殺されてあげようかなって。

 臨也は小さな声でそう呟いた。
 こんなに弱々しい声は初めて聞いた。らしくない。
 静雄は標識を投げ捨てる。それから、あきれたように臨也に言った。

「自殺なら他でやれ」
「そうだね、俺なんかのために、シズちゃんが殺人犯になっちゃったら大変だ」

 肩をすくめて臨也は言った。おかしい。いつもの彼ではない。
 あまりの違和感に静雄の怒りはどこかへ行ってしまった。静雄は首を振る。

「今日は見逃してやるから、帰れ。それからもう池袋へは来るな」

 いつも通りの言葉。もう来るな、姿を見せるな。俺の前から消えろ。いつもと何も変わらないのに。
 それなのに、どうして目の前の男はこんなに傷ついた顔をするのだろう。静雄は胸が痛むのを感じた。

「もう、来ない」
「・・・・・・」
「シズちゃんにはもう会わない。今日はそれを言いに来たんだ」

 最後だから、と臨也は言った。
 だから、最後だから、シズちゃんに殺されてあげようと思って。

 何を馬鹿なことを、そう言おうと思った。
 けれどそれは言葉にならなかった。
 臨也の瞳が言っていた。本気だと。
 ここで自分は死ぬか、それとももうここへは来ないか。
 どちらにせよ、キミの前から一生消えるんだ、と。

 静雄が目を覚ましてからの1週間。
 何もかも投げ出したいような気持で臨也は過ごしていた。
 それでも導かれるように、毎日池袋へ来てしまう。
 あの瞳が自分をもう映さないことはわかっているのに、それでも。
作品名:泡沫の恋 後編 作家名:774