泡沫の恋 後編
翌朝波江が出勤すると、雇い主は事務所にいなかった。
まだ寝てるのか、それとも帰宅しなかったのか。
どっちでもいいけど、と仕事の前準備を始める。どっちでも、というかどうでもいいけど。心の中でもう一度波江は付け加えた。
勝手に備えつけのサーバーでコーヒーをおとし始める。
そういえば以前この香りにつられたように顔を出した男がいたわね、と波江はぼんやり考えた。
考え事をしていても書類を整理する手の速さは変わらない。有能な秘書なのだ。
あれから二人はどうしたのかしら? どうでもいいと思いながらも考える。単純な作業なので頭が暇なのかもしれない。
コーヒーを注ぐためのカップを取りに行こうと立ち上がる。その時、扉が開いた。
「あら」
いつかと同じように彼が顔を出した。寝起きとわかる顔だったが、波江は別に気にしない。それからいつかと同じように口にする。
「折原臨也ならこの部屋にいないわよ」
彼、平和島静雄はわかっているという風に頷くと、どうしたものかと思案するように少し黙る。それから話しにくいことを話すように口ごもりながら、波江に言った。
「い、臨也の奴・・・しばらく起きねーと思うんで・・・そ、それだけ伝えに」
「あらそう」
最近寝不足だったものね、と波江は頷く。
静雄はいたたまれないような顔で頷いて見せた。
何が原因で寝不足だったのか、どうして今は起きれないほど熟睡しているのか。
波江はそんなこと興味はなかったしどうでもいいと心から思っていた。けれど。
つい、言ってしまった。目の前の彼に。
「良かったわね」
目の前の男はきょとん、とした顔をして。それから少し頬を染めて。
そして嬉しそうに笑った。いつかの雇い主みたいに。
ああ、今日も誠二に会いに行こうかしら。
波江はそう思いながら書類に目を戻す。事務所移動関連の仕事は棚上げでいいわね、そう考えながら。
部屋に戻ると臨也が熟睡していた。
いつかもこうして深く眠る臨也を見たな、と静雄は思い出す。
すべての記憶が一気に戻ったせいなのか、静雄の中で記憶の時系列はあいまいだった。その記憶が1ヶ月前なのか3ヶ月前なのかよくわからない。
いつか整理されると思うよ、と新羅は言っていた。けれどこれはこれでいいような気がした。
だって、と静雄は思う。
これからも積み重なっていくのだ、記憶は。
10年前の出来事を曖昧にしか思い出せないように、いつかはこの記憶も風化していくのだろう。
だったら、それがいつだったかなんてたいした問題じゃない。
大切なものは、もっと違うものだから。
満たされる。満たされている、今も、これからも、ずっと。
たとえいつか今日この瞬間のことを忘れて、今のこの記憶が泡のように消えてしまっても。
それでも積み重なっていく、記憶だけじゃない、喜びや悲しみや好きという気持ちが。
記憶は消えてしまっても、気持ちは消えないから。もう、大丈夫。
大丈夫、だけど。
忘れて、ごめんな。
静雄は心の中で小さく呟く。それから。
「臨也」
小さな小さな声で、密やかに名前を呼んだ。
それが魔法の呪文だったかのように臨也は目を開く。
眠そうに緩んだ赤い瞳で静雄を見つめて、それから何も言わずに自分の隣を指し示す。
廊下の向こうでは仕事をしている人間がいるのにな、と静雄は苦笑してそれでも隣に潜り込んだ。
とろとろとまどろんでいる臨也を抱きしめると、それはとても温かくて。
やっぱりいつかのように静雄も眠ってしまった。
けれどもう悲しい夢は見なかった。ようやくここへ帰ってこれた。そう感じただけで。