野ばらの君
接見用の部屋ではなく、あえて、リザは長椅子のあるゆったりした小さな部屋に茶と主と客人を招いた。彼女なりの気遣いだったのだろう。その、王宮内ではこぢんまりした雰囲気の部屋は、エドの気に入りの部屋でもあった。
歩きながら、そういえばさっきの男はどうなったのだろう、とエドは思う。聞く前にリザに来訪者を告げられたので、確かめるのを忘れていた。
だが、何となく、聞かなくてもわかる気もしていた。このまま部屋に行けば、わかるような。
その確信は、侍女頭のグレイシアに先導されてきた男を見て正解にかわる。
「……」
その男はすらりと背が高かった。
宮廷貴族の中にも背が高い者はいないでもないが、彼はそれとは明らかに違った。均整の取れた体躯には無駄がなく、服の上からでも引き締まって見えた。鍛えているか、鍛えぬかれざるをえない状況にいるかのどちらかなのは確かだった。
身に纏っているのは黒と青を基調とした、騎士が好んでする類の装束である。謁見という性質上、その武器は取り上げられていた。王――または王太子の傍近くで武器の帯同を許されるのは、一部の限られた人間だけなのだ。どんな大貴族であろうとも、それを覆すことは出来ない。すくなくとも、まだ。
正式な謁見ではないから、エドはゆったりとした長椅子に楽に腰掛けていた。男は、ふわりと目元を和ませてそんな子供を見遣った後、丁寧な礼をとった。姿勢のよさだろう、彼の動きは見ていて気持ちのいいくらい、ピシリとしたものだった。
「ロイ・マスタングです。大恩ある陛下がお隠れになられたというのに、今日まで御前に参ずることが出来ずにおりました非礼の段、どうかお赦しください」
低めの落ち着いた声は、耳に心地よい。
教育係の教授の声が彼くらい良かったらいいのにとエドは思った。
「……赦す。…陛下も喜んでおられるだろう」
エドもまた、それなりの返事をした。が、…すぐに、側近にしか見せない打ち解けた、砕けた笑みを浮かべた。
「…もしよかったら、母の思い出を話してほしい。…あまり、話し相手がいないんだ」
「…私でよろしければ」
「そちらへ。座ってくれ。…グレイシアのお茶はうまいから」
自分の向かいの席を示して、エドは言った。その背後に控えたリザは複雑な表情をしているが、主が言うことを無碍にも出来ないようだった。というよりも、マスタングに対して彼女は何か思うところがあるようだった。
「…卿は、…もしかして、私が小さい頃のことを知っているのか」
さきほど部屋に突然入ってきたことを、エドもロイも口にしなかった。あの時は部屋に他に誰もいなかったが今はリザがいる、という違いから。
もしも彼が何もかも知っているのだとしたら、すぐに味方だと紹介しなかったリザの態度の理由が説明できない。ということはつまり、彼が味方かどうか、王子の振りをする王女についてくれるものかどうかわからない、ということだろう。
さきほど彼が口にした「野ばら」の意味はわからないが、…まだ慎重さを捨てるべきではないことくらい、エドにもわかっていた。
だが同時に、この男にはどこか懐かしさのような安心感も覚えていて、だから信じたいという気持ちもあったのは確かなのだけれど。
「……ええ」
ロイは、ふっと目を細め、口元に笑みを刻んだ。
「…殿下はまだお小さかったので憶えておられないかもしれないが、私は、殿下方の遊び相手をつとめさせていただいたこともあるのですよ」
「え…」
「…殿下の母上と父上はお優しい方々でした。父を亡くした後、私の行く末を案じ、しばらくの間城に置いてくださったのです」
「…卿の父君は、…母達と面識が?」
ロイは困ったように首を傾げた。あまり聞かない方がいいことであるらしい、とエドは察した。
「面識と申しますか、…どちらかといえばご迷惑をおかけしたのだと思いますがね」
「迷惑?」
それは、と小さく口にしたエドに、ロイは今度こそはっきりと苦笑した。
「さて、それは。…お話してよいものか…」
彼はなぜか、難しい顔をしているリザをちらりと一瞥した。
「……? マスタング卿?」
ふぅ、と彼はため息をつき、いただきます、と断ってからカップに口をつけた。そうして唇を湿らせてから、困ったように口を開いた。
「…殿下」
「……?」
「…いや。ホークアイ卿」
「…なんでしょう」
自分の背後から硬い声を出した頼りになる側近を、エドは驚き混じりに振り返る。彼女が緊張しているところなどめったに見られないというのに…。
「なかなか手堅く守れていると思うが、まだ警備に穴がある。それから、衛兵の身元は本当に確認できているのか?一人、二人だが、ブラッドレイ公家の息がかかった者が混じっていたぞ」
エドに対するのとは違う、厳しさのこもった声だった。
だがそれにもまして驚いたのは、「ブラッドレイ公家」という単語だ。それは、女王の治世でいよいよその権力を高めた家で、おそらくエドの身を危うくさせる最大の勢力だった。元々「公家」つまり公爵家であり、五代前くらいに王家から分かれた一族なのである。
その息がかかった人間が衛兵に混じっていたとなると、大問題なのだった。
「…、ご忠告、痛み入ります。…ですが、卿におかれましては、あのような隠し通路をお使いになられるのはお控えいただきたい。他にもご存知なのでしたら今すぐ教えていただきたい。すべて封鎖させますので」
リザの反論に、エドは自分が怒られているわけでもないのに肩をすくめた。しかし、ロイはどこ吹く風だ。
「何を馬鹿なことを。隠し通路をふさいでしまったら作った意味がないだろうに。秘密を漏らさなければいい話だ」
「…では卿は殿下にお味方くださると?」
ハシバミ色の瞳を光らせて短く切ったリザに、ロイは「そんなことか」という表情を浮かべた。
「当たり前だ。私がどうしてブラッドレイ側につけるかね」
「…ブラッドレイ公家につかれなかったとしても、卿は…」
ロイは――語尾を濁らせた男装の侍従に困ったような笑みを浮かべた。
「私にそんな野心はないさ。…東の田舎の山賊で十分満足している」
「山賊?」
不思議な言葉を聞いたと思わずエドは繰り返す。この男は立派な騎士にしか見えないが、山賊なのだろうか?いや、およそそういうあだ名があるということなのはわかるのだが、しかし…。
「私のことをそう呼ぶものがいるのですよ、それもたくさんね。ですが私はそれで満足している。東部の暮らしはそんなに悪くないですよ」
きょとんとしているエドに、ロイは笑いかけた。
「そうですね、よかったら殿下もいつかお越しください。ここに比べたら何もない場所ですが、…きっと気に入られますよ」
「ふぅん…」
「マスタング卿」
リザの厳しい声が会話を遮る。
「失礼、…こんな誘うようなことを言っては侍従殿のお怒りを買うな」
「ええ。私は卿の武力や統率力には素直に感嘆いたしますし、見る目のない者のようなおろかな世迷言を口にするつもりはございません。ですが、卿、残念ながら、社交界のご婦人方があなたのことをなんと仰っているのかも存じあげているものですから」
リザの苦々しい物言いに、ロイは瞬きした後笑った。