野ばらの君
男が踏み出す瞬間を読んで、エドはガウンを脱ぎ去り、思い切り投げつけた。子供の反抗は計算に入っていなかったのか、まともに視界を塞がれ大男の動きに隙が出来る。エドはその瞬間を見逃したりはしなかった。脇でうろたえているアーチャーなどに目もくれず、エドは思い切り跳躍し、ガウンがまとわり付いた大男の首を思い切り足で挟み、捻りあげる。男からはうめき声が上がったが、しかしそれで倒れてくれる相手でもなかった。男の大きな手がすかさずエドの小柄を払いのけ、力の加減など勿論されていなかった一撃は、子供の体を鞠のように壁まで吹っ飛ばした。とっさに受身を取るのもままならず、エドは背中をしたたか打ちつけて転がる。だが一瞬の間を置いたとはいえすぐに立ち上がったのは賞賛されてしかるべき強さだ。とはいえ…、
「っ…」
立ち上がった瞬間、大男の手がエドの首をたやすく掴み、持ち上げた。恐ろしく強い力で締め上げられ、エドの手からナイフが落ちた。それはからんと高い音を立て床を転がり、アーチャーの足元に転がった。
「あ…」
遠のいていく意識の中で、エドは弟の顔を思い浮かべた。まだ彼が元気で、母も父もいた頃のことを。曇りなく幸せだった頃のことを。
『――あなたのお名前は?』
朦朧としていく意識の中、ふっと黒い瞳が浮かんで消えた。
「………ィ…」
どうして忘れていたのだろう。
黒髪黒目の、兄のような少年。エドを守ってくれると言った、まだ幼さをどこかに残していた騎士のことを。
エドの目からふっと光が消えた瞬間のことだった。ガシャン、と派手な音を立てて窓が割れ、さすがに息を飲んだアーチャーが背後を振り返ったが既に遅く、
「その汚い手を離せ!」
アーチャーの首を片腕で固め、その首筋に剣を突きつけながら窓から転がり込んできた男が怒鳴った。外側から窓を蹴破り、そのまま回転して勢いを殺した後、呆気に取られるアーチャーをすぐに拘束したその手腕は並ではない。そもそも塔の最上階の窓から入り込んでくるのが普通ではないわけだが。
大男は逡巡しているようだった。そしてその一瞬の逡巡は、入ってきた男にしてみたら見逃しようのない好機だった。彼に従う者にとっても。
「…っ!」
窓とは反対側、破壊されたドアの影から突然黒い影が飛び出して来たのはその逡巡をついたタイミングだった。黒い影は無言のまま、大男の手首に刃渡りの長い手刀のような物を容赦なく突き立てた。途端大声を上げる大男の手は当然のように緩み、小さなエドの体がことりと落ちる。それを黒い影が受け止め、受け止めたままに黒い影はのた打ち回る大男の首に手刀を打ち落とした。大男は唸り声すら止めて倒れこみ、ぴくりともしない。…そうして男を処理してから、黒い影は、アーチャーを容赦なく吹っ飛ばした後大またに近寄ってきた男に捧げるように子供の体を差し出す。厳しい顔をしていた男は、ぐったりとした体を受け取るとようやくほっと息をついた。
「…のばら…」
小さな呟きは音を伴わず、誰の耳にも届かなかった。
「…き、…貴様、マスタング…!」
その背後で、狼藉者が声を上げた。窓を蹴破って来た男は、いっそ殺気を撒き散らしながら面倒そうに振り向いた。
その頃には、遅ればせながら複数の足音が塔を駆け上ってきていた。門番達が駆け上ってきているのだろう。
「…なんたるていたらく」
吐き捨て、マスタングは部下に顎をしゃくった。顔まで覆面で覆った黒い、大きな男は黙って頷き、アーチャーをがっちりと拘束し、少し迷った後手布のような物を取り出して猿轡を噛ませた。うるさいという判断だろう、それは間違いない。
「殿下っ…、…?!」
「遅い!」
自分の上着を脱いでエドを包み込むようにして抱いていた男が、先頭切って駆け込んできたリザに叱責の声を上げた。
「こんな狼藉者の侵入を赦すとは…、侯爵はおまえに何を教えた!」
朗々と響く声に叱責され、さしものリザも咄嗟に反応が遅れる。しかし、そのハシバミ色の目がぐったりしている主を見つけると、一気に白皙が青ざめた。
「……ハボック、連れて行け。ホークアイ、牢番をたたき起こせ。それから、」
威風さえ漂わせて指示する男の目が、ホークアイ率いる手勢の背後に向かい固定された。
「ご苦労だった、ヒューズ」
え、とホークアイが振り向いた先には、官吏らしき眼鏡の男が立っていた。見知った顔ではないし、この場に立ち入れる身分でもないだろう。だが、「なぜか」この突然の襲撃を察知していた男とは知己であるらしい。
「御大将、頼みがあるんだが」
王の子を抱きかかえる騎士、枢機卿に向かって男は気安い口調で切り出した。
「そっちの奴の取調べは俺に任せてもらえないかね」
「…かまわんが…」
「グレイシアさんの顔に怪我させやがった罪は償ってもらわなくちゃあな…」
一瞬眼鏡が不吉に光ったが、マスタングはかまわなかった。慣れているので。
「…存分に取り調べるがいいさ。…ホークアイ卿、よろしいな」
完全に事態に呑まれてしまっていたリザは、とりあえず頷くしか出来なかった。
慌しくアーチャーと大男が運び出されて、寝室には気を失ったエドとそれを抱えるマスタング、側近のリザ、そしてこの騒ぎの中にあっても眠り続けているアルフォンスだけが残された。リザもあまりの事態に言葉が出ないでいる。この襲撃のことは、マスタングの部下だというものによって知らされた。まさか塔の守りが破られることなど考えも及ばなかったが、来てみれば兵士は倒れているし、明らかに人数が足りなかった。いずれブラッドレイ公家の息がかかった者の仕業なのであろうが…。
マスタングは最初の叱責の他には、側近を責めることはなかった。よく見ればあの洒落者が髪も乱れて惨憺たる有様だ。それだけ慌てていたのだろう。
やがて彼は、エドを抱き上げたまま、恐ろしく怖い顔で大きな寝台を睨み付けた。
「――アルフォンス」
やはりこの男は真相を知っているのだ、とリザが諦め混じりに思う中、ロイは、王子を相手に厳しい口調で続けた。
「いつまで眠っているつもりだ、アルフォンス!」
その声に、わずかにエドの瞼が震えた。そしてうすらと口と瞳が開く。だがロイはすぐにはそれに気づかなかった。
「おまえがいつまでもそうやって甘えて隠れているから、エドが泣く羽目になる!」
「……」
エドはしばらくぼんやりとロイの顔を見上げていたが、怒っている口調で我に返った。そして、弱弱しく手を上げてロイを制する。
「…や、めて、…」
「エド」
もはや隠す相手はこの部屋にはいない。だから、ロイは隠しもしなかった。だがその激情を抑えたような声を聞けば、隠す気がないのではなく隠せないのだとわかった。
「アル、は、…わるく、ないから…おれ、…ちゃんと、がんばる、から…」
ロイの腕の中で必死に身を起こし、弟を庇おうとするように彼女は続けた。実際健気な話だ。今もエドの声はかすれて、話すたびに苦しげに眉をしかめているというのに。
「だか、ら…っ、」
そのまま言い募ろうとして咳き込んだ背中を慌てて撫でてやれば、エドはぽろぽろと涙をこぼしながら「アルをいじめないで」と繰り返す。ロイはたまらなくなって子供を抱きしめた。