不可視猛毒のバタフライ
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8月18日。
岡部が未来からタイムリープしてきてから7日目に、まゆりが死んだ。
まゆりと岡部は飛行機で一度アメリカに向かい、戻りに日付変更線を越えることで彼女の死の時間を越えるはずだった。けれど彼女は日本時間の8月17日に心臓発作で息をひきとった。亡骸とともに戻ってきた岡部は、悲嘆に暮れるまゆりの両親に冷たくなってしまった彼女を託してラボに戻ってきた。
この数日ほとんど寝ていない隈のひどい目、絶望に染まった瞳、淡々とした態度。たぶん一度の失敗でこんな風にはならない。何度も挑戦して失敗し、内心諦めかけているのだろうと思う。このままでは運命は必ずまゆりを殺す。そしてそのことに、岡部は絶望し続ける。
「……次はどうすればいい?」
外はもう暗い。蛍光灯の頼りない明かりの下、ソファーに座った岡部が私を見上げながら呟いた。彼はまだ諦めていない。もう一度タイムリープしてまゆりを救うつもりなのだ。このまま何度繰り返してもその結果は空しく終わることが決まっているのに。
「ねえ岡部、もう、諦めよう?」
私が言うと、岡部の落ちくぼんだ目が更なる絶望に染まった。私が、まゆりが死んだと連絡を受けてからずっと言おうと考えていた言葉。「まゆりの死を避ける手段がないことくらい、岡部自身が気づいているんでしょ? 未来のことなんかどうでもいい。私はもう、岡部に無理をしてほしくない」
「……紅莉栖、お前がそれを言うのか!?」
即座に立ちあがった岡部は、私を睨んだ。目が赤い。涙がにじんでいる。唇を噛みしめて、強く握りしめられた拳が震えている。納得できないと彼の全身が叫んでいた。岡部はそこまでまゆりのことが大切なのだ。
彼に告げてはいないけれど、私は岡部のことが好きだから、まゆりをあきらめてくれないことに絶望してしまう。
「まゆりを救う手段なんかこの世界線にはないのよ……これ以上無理したら、岡部が壊れてしまう!」
「命を救うためなら、俺なんか壊れたってかまわない! 俺は!……どうしても、救いたいんだ!!」
だから協力してくれ紅莉栖、と、すがるように岡部は言う。
彼の目も言葉も行動も、全てが死んだまゆりのためのもの。それを思い知らされた私の絶望はさらに深まる。この人に私の言葉は絶対に届かない。まゆりがいる限り私は彼の一番になれない。こんなに好きなのに! 彼はタイムリープで私のところから離れてまゆりのところへ行こうとしている。私をこの世界線に置き去りにして。
私のものにならないのなら、いっそ。
岡部がタイムリープしてきた夜から繰り返し見る悪夢は、きっと別の世界線での出来事なのだと私は考えていた。私が彼の名前を呼ぶと、なぜか大きなアクシデントが起きて岡部は行動不能になり、私の手でタイムリープせざるを得ない状況に陥る……恐らくは強い情動によって、不完全だけれど世界線を越えて記憶が継続している。
行動不能になる。タイムリープさせる……もし、私がタイムリープさせなかったら?
岡部を動けなくして、タイムリープマシンを壊してしまえば、彼はもう過去へは戻れないだろう。
未来のディストピアなんかどうでもいい。岡部がここにいてくれさえすれば。
思いに浸っているうちに岡部の姿は部屋から消えていた。勝手に作った合鍵を使って今日の営業を終了したブラウン管工房の42インチの電源を入れに行ったのだろう。私に残された時間はもうわずかしかない……わかっていてもためらってしまう。私の中の良心が言う。本当にそれでいいの? 私はそれで幸せになれるの?
「好きなんだから、仕方ないじゃない」
口に出して自分自身に言い聞かせた。私は岡部を誰にも渡したくない。今はもういないまゆりにだって。
静かに足音が部屋へと戻ってくる。目を赤くした岡部は私の方を見ることなくラボの奥へと向かう。私がこれまで何度も見送ってきたはずの白衣の背中。この世界から去ろうとする彼に、私は、聞こえないように、小さく呪いの言葉を投げる。
「愛してる、倫太郎」
彼は私の声に振り向いて、そのまま胸を押さえて崩れ落ちた。床に転がってもがく様を静かに見おろす。これで彼は私のもの。もうどこにも行かせない。力なく痙攣する大好きな人をそっと抱きしめると、かすかなささやきが耳元で聞こえた。
「……ごめん……ごめんな……紅莉栖……」
なぜか彼は私にひたすら謝っている。意味がわからない。まゆりじゃないの? まゆりのためにここまで頑張ってきたんでしょ? なんで私に謝るの。私は、自分のわがままであなたを苦しめただけじゃない。
「……俺は……紅莉栖を……助けたいのに……」
そう呟いて涙声が消え、私への言葉は途切れた。意識を失った彼の目は既に閉じられていた。強く抱きしめていたから、心臓の鼓動がどんどん弱まっていくのがわかる。
私は混乱する。
「……私を助けるってどういうこと。まゆりでしょう? あんたがここまで無茶してきたのは、まゆりのためなんでしょう!? なのにどうして私のことが出てくるのかな。ねえ……待ってよ、私そんな話聞いてない!! ねえ!」
岡部からもう言葉は戻って来ない。
私は悲鳴を上げた。
私は間違ったのだ! 呼んではいけなかった! 透明の蝶に気づいてはいけなかった!
倒れた岡部の頭にヘッドギアをかぶせてタイムリープを仕掛ける。まゆりのためではなく私のために心をすり減らしていた岡部を過去へと戻すためにマシンをスタート。私はそのままラボから飛び出し靴も履かないままで屋上へと駆け上がる。岡部を吹き飛ばす蝶の夢を消すために。強い情動が他の世界線へ繋がって蝶を広げるならば、今この蝶を脳ごと封印するしかない。屋上。世界はまだ変わらない。もしかしたら岡部がタイムリープしてもこの世界は続くのかもしれない。けれど私の記憶をそのままにしてはおけない。他の世界線の自分に同じことをさせたくない。時間があれば自分の海馬に電極を差し込んで記憶を飛ばせばよかったけれどこの世界はもうすぐ終わる。時間がない。この愚かな自分にできることは、別の世界線の私が決して名を呼ばないように、蝶の夢を痛みで塗りつぶし悪夢に変えることだけ。
作品名:不可視猛毒のバタフライ 作家名:Rowen