チョコレイト・デイズ
無意味に頷きながら、ロンは友達としてと言う言葉にホッと安心した。それとともに肩がわずかに下がった。やっと心のもやもやも晴れる。ハーマイオニーがあまりにもハリーのことばかり言うから、もしかしてとロンは疑っていた。
「ハリー、いるんだってさ。好きなヤツ」
さっきよりちょっと声がはずんだ。
「やっぱり! 言ったでしょ、いるって。で、誰だったの?」
「聞くかよ、そんなの。プライバシーってやつ」
「何言ってるのよ、もう」
盛大に頬を膨らませたハーマイオニーは、必要以上に残念がっていた。
「やっぱり、ハリーのこと、」
「怒るわよ」
ハーマイオニーはロンに皆まで言わせず、ぎろりと睨みつけた。
「ハリーって女の子にけっこう人気なのよ、一部だけでだけど。だからハリーの心を射止めたのは誰なんだろうって興味がわいたってわけ。まぁ、ハリーが妙なのも恋の病だと思えば心配しても仕方ないわ。そんなの部外者の誰にも治せないもの」
「そういうもん?」
「そういうものよ。それにしてもできるだけ早く決着がついて欲しいわ。ぼんやりしてるハリーなんてごめんよ。これ以上、レポート手伝えないもの」
ハーマイオニーは横にどけていたノートの表紙をロンに見せた。そこにはしっかりとハリーの名前が書いてある。
「そう思うよ、ホント」
ハリーのくたびれた姿を思い浮かべながら、ロンも心から同意した。
一方、ハリーはたった二週間で嵐に巻き込まれ、自分でもどこでどうなってしまったのかさっぱりわからくなっていた。
いつの間にか心は飽きることなくスネイプを求め続けて、いても立ってもいられず、早く先生の部屋に行きたいのに器磨きが終わればもう会えないのかと思うと部屋に行くのもためらわれる。そんなこんなで、浮き沈みの激しい感情にハリーはすっかり疲れていた。何よりもスネイプに嫌われていることが重く心にのしかかっている。
教室でのスネイプは、相変わらず陰険で、意地が悪く、ロンやハーマイオニーを怒らせていたがハリーはただ悲しく胸を痛ませていた。
今日も散々マルフォイたちの前で嫌味を言われ、あげくのはてには三人揃って三十五点もの減点をくらっていた。三人の減点にグリフィンドールはすっかり諦めている。
好きな人に嫌われるなんて、この世で一番悲しく、みじめなことだとハリーは思った。あのダーズリーおじさんに夕食を抜かれて、ハーマイオニーたちからの手紙を隠された上にヘドウィグを虐待されるより最低だった。
部屋にいるときのスネイプは、意地悪だったが胸を痛ませることは言わなかったし、しなかった。教室でのスネイプがスネイプだから、あの部屋には何か魔法がかけてあるのかと思うくらい優しく感じた。それが嬉しくて仕方なかった。
先生は自分のことをどう思っているのだろうということが、今ハリーの一番の関心事だった。嫌いという感情のほかに何かないのか。「関心」という生ぬるいものではなく、「執着」や「狂信的」といった暗く粘着質のある適切ではない温度のこもった心情がハリーを無口にさせた。
器は少しづつ減っている。わざとゆっくり磨いていることにスネイプもとうに気づいているはずだったが、何も言わないまま四日が過ぎていた。
初日に十三個を磨いたハリーは、ここ二、三日は一日一個というペースをかたくなに守っていた。それでも残り一個となり、すっかり諦めてしぶしぶ最後の器を磨いているハリーにスネイプが言った。
「それを磨いたら校長から頂いたシャンパンでも飲むか?」
「う、ん」
ハリーはスネイプを見ないようにして、曖昧に頷いた。
それっきり黙る。それでもどうにもたまらなくなって、そっと伺うと、きれいに片付けたデスクの前で椅子に座り、スネイプは三つのランプをくるくると宙で回して遊んでいた。
子供みたいだ、先生。
青い炎のランプとオレンジの炎のランプ。残りの一つは真っ赤な炎のランプ。珍しく杖をひょいひょいと動かしている。うっすらと笑みを浮かべた表情からハリーは目を逸らせた。
こんなことで、たったこんなことで胸が苦しくなる。先生、その黒曜石のような瞳で僕だけを見て欲しいなんて、僕が思ってること知らないでしょう。
僕は先生が意地悪なのに、とっても優しいことを知っている。何十点も減点するくせに試験で落第した生徒がいないってことを知っている。ぞくぞくするような声をしていることも、案外行儀が悪いことも、手の平がしっとり大きいことも知っている。
先週、ロンたちにも内緒でこっそり暴れ柳の下で会ったルーピン先生がつかの間僕の顔を見つめて、『セブルスはダメだ、ハリー』と悲しげに謎のようなことを言っていたけど今ならその意味がわかる。
ルーピン先生はきっとこうなることがわかっていたんだ。さすがだ。今、ボガード妖怪が出てきたら、きっとスネイプ先生の姿をしているのに違いない。先生に嫌われているかと思うと死んじゃいたくなる。僕は先生が怖い。僕を嫌っている先生の感情が怖い。
「リディクラス、リディクラス・・・」
ハリーは一心に呪文を唱えた。
「何をブツブツ言ってるんだ?」
スネイプの言葉にハッと顔を上げた。
「なんでも。なんでもないんです」
「なんでもないって顔じゃないぞ」
スネイプは指先でハリーの目元をぬぐった。先生の指先の冷たさが胸にしみる。
「なぜ泣く」
「え?」
ハリーは慌てて袖口で目元をぬぐい、できる限り陽気に言った。
「あれ。なんでだろ。おかしいな」
「おかしいな、まったく」
揚げ足を取るようにそう言って、スネイプはハリーの目の前に胡坐をかいて座った。左手に赤いラベルのシャンパンを持っている。
「ここのところ、ずっとおかしいぞ。器磨きだって、三時間かかって一個なんて異常だ」
下を向くハリーにスネイプは続けた。
「別にそれが悪いんじゃない。百個磨くのが約束だからな。時間がいくらかかってもかまわないが、何か言いたいことでもあるんじゃないのか。どうせ文句だろう。チョコレートが足りないとか」
言うなら今のうちだ、とからかうように言いながら、スネイプは懐から小さなナイフを取り出し、シャンパンの口ラベルを切り取った。
ハリーはそれをジッと見つめながら、何度も唇を噛んでいた。言いたいけれど、言えない。言えないけれど、知って欲しい。胸がいっぱいで苦しくて、このままじゃ切なさに溺れ死んでしまう。僕の心はいっぱいいっぱいで、何かがこぼれそうにゆらゆらと揺れている。
僕は先生が好きで、挨拶のキスさえ出来ないのに唇にキスしたい。気が遠くなるようなキスをされたいんだ、ほんとは。でも。
「いいえ。何も」
ハリーは最後の器を丁寧に磨き上げて、ようやくの思いでスネイプに笑いかけた。
何も言いたいことはありません。言ってもどうにもならないことだから。少し引きつった笑顔になったかもしれない。無理に作る笑顔は難しい。まだ僕は子供なんだ。無力な子供だ。好きな人に好きとも言えない。ハリーは自分の感情に戸惑いながらも諦めていた。
スネイプはかすかにため息をつくと、まあいいと言った。
「ソファにでも座ってろ。グラスを持ってくる」
作品名:チョコレイト・デイズ 作家名:かける