チョコレイト・デイズ
大天使が描かれているステンドグラスの衝立向こうを親指で指し、スネイプは背を向けた。
「せっかくだから、銀のグラスでも久しぶりに出すとしよう」
やっかいなことにあのグラスは呼び寄せ呪文にはへそを曲げる。迎えに行ってやらないとシャンパンを注がしてもくれないプライドの高いヤツだが、それだけ作りもいい。一度飲ませてやるよ。
スネイプの声がだんだん小さくなり、隣の部屋に消えた。
ハリーは深緑のビロード生地がたっぷり使われたソファーにそっと腰掛けた。猫足テーブルの上にはいつの間に用意されたのかクラッカーやチーズが並べられ、オセロも用意されている。ガラスの小皿に真っ赤に熟れた季節外れの大きなイチゴが盛られていた。
こつこつと足音をさせて戻ってきたスネイプの両手には細かい花の模様が細工された銀のグラスが握られていた。
「ほら」
差し出されたグラスを受け取ると、スネイプがシャンパンを注いでくれた。シュワシュワッと泡が弾ける小さな音がする。スネイプは自分のグラスにもシャンパンを注ぐとハリーの向かいのソファに座り足を組んだ。
「乾杯」
スネイプは目の高さまでグラスを掲げ、ハリーの視線を捕らえるとそのまま離さずにグラスに口をつけた。ハリーは身動きもできず視線に捕われていたが、やっと軽く頭を振って俯き「先生の健康に」と小さく呟いてシャンパンを一口、口にした。
飲みなれないシャンパンは苦かった。チラリとスネイプを見ると無表情でグラスを口に運んでいる。きっと苦くはないんだろう。先生は大人だから。
黙ったままスネイプはシャンパンを飲み干し、二杯目をついだ。
「何か言いたいことがあるんだろ」
ハリーの前にオセロがのった皿を押しやりながら、スネイプは言った。気づけば、ハリーは最初の日より、初めてオセロを見たときより、明らかに元気がない。嫌そうに、でも負けん気もちらりと見せながら、つっかかってきた態度はいつの間にか影を潜め、弱々しく、どこか痛そうな顔をしている。言葉数も少なくなり、張り合いがない。今も困ったような顔をして、肩をすくめるだけだ。
「グリフィンドールが私のことを嫌いなのも、もちろんお前が私のことを嫌いなのもわかっているが言いたいことを聞く耳は持っているつもりだ。今は授業中ではないからな」
スネイプは授業中に質問以外の言葉を聞く耳は持っていない。質問でさえ腹が立つが余計な口を挟まれると許しがたいほどムッとする。
「これでも一応、教師だ。好き嫌いだけでは判断しない」
スネイプは思っていたより甘口だったシャンパンに少しイライラした。好みはすっきりとした辛口の赤ワインだ。人からもらわねばシャンパンは口にもしない。
ダンブルドアはシャンパンを好むのか時々スネイプにくれるが、辛かったためしがない。それでも断らずにありがたくもらうのは、スネイプなりにダンブルドアを尊敬しているからだ。ダンブルドアの手を経て口に入れば昔の過ちを少しでも消してくれるような、そんな都合の良い夢が現実になるような気がするのだ。誰も知らないけれども、知られるつもりもないけれどもそうなのだった。
だから、と言いかけて、ハリーの肩が小刻みに震えているのをスネイプは忌々しげに見た。
スネイプは教師だと言っておきながら、子供が苦手だった。自分の子供時代が恵まれたものではなかったこともあり、気づいていないにしろ堂々と甘えを口にするところが神経を逆なでする。
特にハリーは気に入らなかった。誰もが知っていて、なんだかんだと難問を潜り抜け、それでいて子供特有の甘えと無邪気さを持っているのが気にいらなかった。授業中にその存在を感じるだけで、目の端に入るだけで、条件反射のようにイライラした。八つ当たりとわかっていても止めることはできなかった。
しかし、それらすべてを凌駕して気に入らなかったのは自分の知っていた誰かに似すぎていることだった。
震える肩を見ていつにも増してイライラする心を押さえつけ、できる限り優しい声を出すのに苦心した。目の前の肩は思いのほか細い。白い首筋に緑の血管がかすかに見えるようだった。ああ、幼いのだとふいに思う。本当に小さな子供なのだ。
「だから、言いたいことは言えばいい。怒らないし、呆れもしない」
湧き上がるイライラを押さえ込むように二杯目のシャンパンも一気に飲み干す。
チラリと視線をやった先で、濡れた落ち葉色の瞳が詰るようにまっすぐ自分を見たとき、心臓が一瞬止まる音を聞きながら、「捕らえられた」とスネイプは愕然と悟るとともに瞬時に後悔した。誰でもない、自分が捕まったのだと。舌打ちも出来ず、視線を逸らすことも出来なかった。
概視感がスネイプを襲う。
あの目と同じ目を知っている。あの日詰るように自分を見た冬の湖を思わす深く蒼い瞳。息を奪われるような口付け。激しいくせに温かい抱擁。唇が押し付けられるまぶた。耳元で繰り返される囁き。愛される体。汗ばむ体の重み。暗闇に充満する吐息。
無意識に首の鎖を触っていた。ずっと昔。はるか昔、誕生日にもらった。自分でも忘れていた日を「馬鹿だな」と呆れたように優しく笑ったあの男と自分を繋ぐものはもうこれだけになってしまった。
男が死んだと知ったとき、もう誰かを愛しはしないと決めた。きっと耐えられない。自分をおいて愛する人が死ぬことに、あの壊れるような痛みに、次はもう耐えられない。
思い出したくないことばかりを思い出させる落ち葉色の瞳。イライラする。それなのに、どうしてこの瞳に見つめられると胸がかき乱されるのか。頭に響く警鐘に抗ってまで、この幼い子供の瞳に心奪われるほど見入ってしまうのか。
スネイプは年甲斐もなくプライドも捨てて、すべてを捨てて、このちりちりと燃える疼きから目を逸らしていた。このままではいつか捕まる、逃れられないと焦ってもいた。そう考え始めていること自体がもう遅いのだと頭の隅で思ったりもしたが、認めるわけにはいかない。子供相手に愛だの、恋だの、好きだのとやる気はなかった。
こんなはずではなかった。だから厳しくした。次々と減点を与え、八つ当たりとも思える言葉を振りまいて、憎しみに溢れる瞳に安堵した。もっとあの瞳が傷つけばいいとさえ思っていた。
そんな意思とは反対にそれでも部屋に呼び入れたのは、この子供を離すことはできないのだと勝手に体が動いたからに他ならなかった。結果的には自分から手を伸ばしたのだ。
目の前で茶色の瞳がくしゃりとゆがんだ。
「僕は先生のことが嫌いです」
「それは知っている」
軽く受け流しながら、自分はかなりショックを受けているらしいと、冷静にスネイプは分析していた。そうなるように仕向けてきたにもかかわらず、目の前ではっきり言われるのはなかなかこたえる。自業自得だと思いながら指先が冷えていた。
「陰険で」
「そうだな」
「性格が悪くて」
「よく言われる」
「ひいきするし」
「ふん」
ハリーはずずっと鼻をすすった。乱暴に袖で目をこする。こらえきれなくなった涙が溢れていた。
スネイプは手を伸ばしたいのをジッと我慢した。手に持ったグラスのシャンパンがかすかに波打っているのを見て心の中で苦笑する。情けない。さり気なくテーブルにグラスを置いた。
作品名:チョコレイト・デイズ 作家名:かける