チョコレイト・デイズ
そんなに必死に訴えなくてもいい。私にそんな価値はない。しゃべることをやめない子供の涙声が耳に痛々しく響いていた。
「怒ってばっかで」
「否定はしない」
「すぐ減点するし」
「教師だからな」
「最悪。嫌いだ先生なんて」
嫌われていることなんてとっくの昔に知っていたし、どうってこともなかった。いまさらだ。特にハリーの前では好かれようとしたこともない。「最悪だー」と食堂で騒がれていても、またかと思うくらいだった。現にあの時振り向きもしなかった。言われ慣れている。
それなのにたった一言、実際に面と向かって嫌いだと言われただけで、バカみたいに手が震えていた。
胸ポケットに手をやり、タバコがないことに気づいて舌打ちした。毎日ハリーが来る前にデスクの引き出しに放り込んでいた。子供にタバコの煙は良くないのだと、そう聞いてなんとなく辞めていた。
いや、なんとなくじゃないなとスネイプはため息を殺して、ちょっと目をつぶった。
あの日、初めてハリーが部屋を訪ねてくることになった日、風邪気味なのか咳をしているのが気になっていた。普段は使ったことのない加湿器のかわりになるものを用意し、紅茶を入れた。子供は甘いものが好きなのだと後から気づいて慌てて砂糖を用意した。ノックの音にタバコを引き出しにしまい、部屋の空気をクリアにした。思えば全部子供のために行動していた。
今はむしょうにタバコが吸いたかった。
指を鳴らして、タバコを出す。ハリーが見ていることは知っていた。それでも一本無造作に口に咥えると火をつけた。煙が肺に入ってくる。気持ちよかった。上を向いて思いっきり煙を吐き出す。
「言いたいことはそれだけなのか? どうせなら全部言えよ」
グラスにシャンパンをつぐ。ハリーの目を見ることは出来なかった。何を言われるのか、柄にもなく身構えていた。注いだばかりのシャンパンをまたもや一気に飲み干し、タバコを咥えた。落ちつかなかった。目の端で子供の細い顎を伝い落ちる涙が気になって仕方ない。
「先生、たばこ吸うんですね」
「まぁな」
「先生の手って大きいですね」
「そうか?」
「意外に行儀が悪いし」
「ふん」
「僕は先生のことをちょっとは知ってる」
スネイプはハリーのシャンパンが少しも減っていないことに気づいた。あぁ、飲めないのか。
「それをこっちに入れろ」
スネイプがテーブルの上の自分のグラスを指差していた。タバコを挟んだ指をそのまま口元に運び、目を細めて煙を吸っていた。
ひそやかに甘い感情がハリーを支配する。苦くて美味しいとは思えなかったシャンパンが先生のグラスに移るのを見ていると、とてつもない美酒に思えてくる。
僕の気持ちが先生のグラスに落ちていく。シャンパンの泡は僕の胸の痛み。消えても消えても、次から次にわきあがる。先生が好きだ。
「面白い物をみせてやろうか。グラスはテーブルに」
そう言って、スネイプはパチンと指を鳴らした。
何もない空間から現れた細かな氷が小さく軽やかな音を立てて、次々とグラスに落ちていく。どこからともなく真っ白なポットが現れ、高いところから紅茶を注いだ。あたりに花の香りがふわりと広がる。さらに黄金色のとろりとした液体がこれまた高いところから糸のように垂らされ、グラスの中の氷がシャラシャラと音をさせながら次々に飛び上がると、最後に薄紫の小さな花がグラスを飾った。
「けっこうセンスのいい見世物だろ? ハチミツ入りのアイスティなんて久々に見るけどな」
笑いを含んだからかうようなスネイプの声にハリーは返事をしなかった。
先生って、いつもそうなんだ。最初の器磨きのときもクッションが飛んできた。床に座ってたって平気なのに。砂糖壺も、チョコレートも飛んできた。今だって、飲めないシャンパンを紅茶にかえてくれた。ほうっておいたって別にかまわないはずなのに。嫌いな僕にだって優しくできる。
「僕は先生のことちょっとは知ってる」
「そりゃどうも」
スネイプはタバコをもみ消した。少し気分が落ち着いていた。相手はシャンパンも飲めない子供なのだ。何を恐れる必要がある。
恐れる? 私が子供相手に恐れている、と?
ばかな。
すぐにスネイプは考えを否定した。ばかな。
私の気持ちがどうであろうとも、どうにもならないし、どうにかするつもりもない。たとえこの子供に気持ちが傾いていたとしても、このまま毎日が過ぎていくだけだ。それが一番だ。
顔を上げると落ち葉の目がジッと見ていた。
「先生が僕のこと嫌いでもいいんだ。僕が先生を好きだから」
「は?」
我ながら間抜けな顔をしているんだろうとスネイプは思ったがどうすることもできなかった。
「先生が性格悪くても、陰険でもいいんです。僕、どうしようもないんだ。先生のこと考えるだけでおかしくなる。先生に嫌われてると思うと死んじゃいたくなる」
「・・・・・・さっきは嫌いだって、散々言ってたぞ」
ようやくスネイプは口を挟んだ。驚きすぎて、反対に妙に冷静になっていた。
「僕をおかしくしてしまう先生が嫌いなんだ。先生は大人で、いつでも余裕で、意地悪で、いろんな経験があるかもしれないけど僕にはそんなのないんだ。どうしていいかわかんないよっ」
そう言って、耐え切れなくなったのかハリーはしゃくりあげて泣き出した。
「先生はっ・・・ぼ、僕の、ことが、嫌いだし・・・そん、なのっ、知ってる、け、けど・・・けどっ仕方ない・・・す、好き・・・んだもん」
スネイプは呆気にとられてハリーを見つめていたが、とりあえず目の前のシャンパンを飲み干す。それからタバコを取り出し口に咥えたが、ちょっと考えてまた元に戻した。タバコの箱をポイっと放り、深々とソファにもたれた。
結局、これが答えなのだ。冷静になれば、この子供の前ではタバコすら吸えない。砂糖を用意して、興味もないチョコレートを買う。甘口とわかっているシャンパンを開ける。それでも飲めないとわかれば余興つきでアイスティー、それもハチミツ入りで。頭痛がする。
スネイプは立ち上がった。ほんのわずかでいい。頭を整理する時間が必要だ。もうすでに認めるしかない状況に陥っていたけれども少しの時間が必要だった。少なくとも大人として覚悟ができない。ハリーが涙のたまった瞳で見上げてくるのを横目に隣の部屋に向かう。
「うぅ」
隠しきれない嗚咽を漏らして、ハリーは顔を手に埋めた。何も声をかけずに先生は行ってしまった。嫌いな生徒に好きだと言われて、先生はどんなに嫌な気持ちになっただろう。僕がダーズリーに好きだと言われたら、きっと手当たり次第に物を投げつけて、気持ち悪くて顔も見たくなくなる。今でも充分見たくないけど。
そんなことを考えて、よけいにハリーは泣けてきた。先生も自分の顔なんか見たくないに違いないと思うと胸が張り裂けそうに痛かった。
誰かが歌っていたのに。あんなに楽しそうに歌っていたのに。
『恋とはなんて素晴らしいのかしら』
何がどう素晴らしいんだ。僕の恋はもう失ったも同然だというのに。いい加減なことを。
ひっきりなしに痛む胸に息が乱れる。意識的にはぁはぁと大きく呼吸をし、少しでも痛みを逃そうと試みてもそれは無駄に終わった。
作品名:チョコレイト・デイズ 作家名:かける