チョコレイト・デイズ
もうだめだ。いたたまれない。先生が戻ってくる前にここから逃げ出そう。ハリーは立ち上がった。衝立を出ようとしたところで、スネイプとかち合う。真っ黒な瞳が静かにハリーを見下ろしていた。ビクリと体が震えた。
「まだ帰るなよ」
「え、」
スネイプはハリーの頭をポンポンと優しく撫でるとソファに座るよう促した。ハリーがおずおずと座ると、その隣にスネイプはハリーと向かい合うようにして斜めに腰掛け、おもむろに足を組む。目の前で黒髪が、小さな肩が、漏れる声が震えていた。
まず、とスネイプは言った。
「鼻をふけ」
すかさずティッシュを鼻に押さえつける。
「ほら、ふーんってしろ。ふーんって」
真面目にそんなことを言うので、ハリーは思わず笑ってしまった。あまりの似合わない言葉に今度はくすくす笑いが止まらない。目からは涙が出るし、笑いは止まらないし、鼻はかまなきゃいけないし、やたらと忙しい。
スネイプはハリーがティッシュを押さえたのを見て手を離し、そのままハリーの頭に手を伸ばした。つややかな黒髪を撫でる。ビクリと震える体を無視して撫で続けた。
愛しかった。
認めてしまうと簡単だった。昔から愛しかった。
あの男と同じ目をしていることに気づいて、同じ血を引いているのだから当たり前かと思った。時々、男がいるのかとドキリとしたこともあったが、いつしかあの湖の蒼ではない、暖かな秋を思わす落ち葉色の目を見つめ始めた自分に慌てたりもした。こんな子供に捕まるとは。
下を向いたまま、クスクスと子供はまだ笑っていた。泣くよりずっといい。
「笑いすぎだぞ」
「先生って、子供みたいだ」
ようやく顔を上げたハリーは目元を赤く染めていたが、もう泣いてはいなかった。
「十分大人だ。もう四十なんだからな」
「先生、ゴミ箱どこですか」
「人の話聞いてないだろ」
「聞いてます。先生は四十歳で、黒い服ばかり着て、指先が少し冷たくて、声が良くて、僕はいつでもドキドキするんだ」
そう言って、ハリーはぷいっと横を向いた。
スネイプは撫でていたハリーの髪をちょいちょいっとひっぱった。
「ティッシュ」
手を指し出す。それを見たハリーがティッシュを渡そうと手を出したところで、手首を掴み抱き寄せた。胸にすっぽり収まってしまう幼い背中にさっさと腕を回す。育ちきっていないしなやかさがスネイプを翻弄した。柔らかな体が心地よい。
「先生っ」
狼狽のきわみと言ったハリーの声がスネイプの顔に笑みを浮かべさせる。
「なんだ?」
真っ赤な首筋を見て、意地が悪いなと思う。きっと腕の中の子供はどうしていいかわからないに違いない。息さえひそめて、じっと固まったままだ。
耳をなでると泣きそうな声を出した。ますますいい気になって、スネイプは首筋に指を這わせた。
「先生っ」
「なんだ?」
首筋に唇を押し付けると、ついにハリーは暴れ出した。必死に手足を突っ張るが、スネイプには楽々と押さえ込める弱さだ。強引に顎を掴み、上を向かせると命令するように言った。
「目をつぶれ」
濡れた瞳がたまらなかった。恐々と、それでも素直に瞳を閉じるハリーの首の後ろに片方の手を差し入れ、唇を軽く押し当てた。逃げようとする頭を押さえ、角度を変えて深く口付けた。下唇を舌でなぞり、口を開かせ、歯列を割り、逃げる舌を追いかける。
子供には刺激の強い大人のキスを教えてやろう。その無垢な瞳が、身体が、どれほど大人を惑わしているのか知るといい。
初めてのキスに胸を喘がせていたハリーはいつしか唇が軽くあわさっているだけで、自分が溶けてなくなってしまうような恐ろしいほどの甘さから解放されていることに気づいた。
首の後ろに回された手の平はそっとハリーの頭を支え、人差し指が器用に耳の後ろを撫でている。
すっかり骨抜きになっていた体の奥深くで、思いもよらぬ激しさに狼狽していた何かがゆっくりと消えていく。
ハリーはそろそろと腕を持ち上げて、スネイプの背中に手をまわした。
シャツごしに触れる体温が確かに今、ほかでもない自分が先生とキスをしているのだとハリーに実感させ、甘やかな気分にさせる。
そっと唇を離したスネイプは柔らかな頬を薄桃に染めたハリーを間近でじっと見つめた。睫毛を震わせてまぶたの下から現れた瞳が、まるでできたての飴のように濡れてつややかに光る。
「いちごとチョコレート、どっちがいい」
ハリーはぼんやりとスネイプを見つめた。遠くで声が聞こえた。
「え?」
「いちごかチョコレート、どっちだ?」
視線を促すようにテーブルに向けて顎をしゃっくった。
「え、あ、うんとチョコ」
ハッとして答えたハリーにスネイプはククッと笑った。
「好きだな」
「オ、オセロだから!」
パチン、と指の音がして「ほら、口を開けろ」
人差し指と中指に挟まれたチョコレートがハリーの口に入ってくる。ハリーはポロリと舌に落ちるチョコレートを待った。
「へんへい?」
「ん?」
「へ、ほへへ」
チョコレートを挟んだまま、口の中から一向に出ていこうとしないスネイプの指。
ハリーは口を閉じることもできず困りはてる。訴えるようにスネイプを見ても黒曜石の瞳は光るばかりで手をどけてくれそうにない。
そればかりか、「早くしないとチョコがとけるぞ」と意地の悪いことを言う。
視線をうろうろとさまよわせ、目を伏せた。
なぜだか泣きそうになりながら、ハリーは慎重にチョコレートのありかの見当をつけ、思い切ってペロッと舐めた。
とたんにミントの香りが口中に広がり、まるでオセロにおそいかかるかのように唾液が湧き出てくる。
それでも次に舐めるのは気がひけた。さっき、チョコレートだけではない何か、考えるのも恥ずかしかったがスネイプの指を舐めていた。覚えていた通り、少し冷たい指先をまた舐めてしまったらどうしようと思った。
飲み込めない唾液が口から溢れそうになり、ハリーは慌てて少し口を閉じた。歯がスネイプの指に当たる。
ハッとして視線をあげると、そそのかすかのように歯の下の指が小刻みに動いた。
ハリーは自分の息が少しづつ荒くなっていくのを止められず、はぁはぁと熱い息をもらした。体中がじわじわと熱を発している。苦しくて目が潤む。
ハリーを見つめたまま、スネイプが赤い舌で下唇をゆっくりと舐めるのを目にしたとき、身体の中を背骨に沿って上から下へ稲妻が走ったように感じた。鳥肌がたっていた。
たまらずスネイプの手首をつかみ、口の中に居座るものに、チョコレートと唾液でべとべとになった指に舌を這わせた。
夢中で舐めた。指の腹だけでは満足できず、爪にも舌を伸ばす。
指はいたずらすることもなく、大人しくハリーの好きにされていた。
指先が根負けしたように温かくなった頃、ハリーの顔を熱のこもった目で見つめていたスネイプはゆっくりと指を引き抜くと、かわりに自分の舌を差し入れた。
「せん、せ、苦し・・・い」
大人の切れかかった理性を試すかのような子供の掠れ声に、苦しいのはこっちだと眉間にしわが寄る。
かすかにチョコレートの味がする舌を散々好きにして唇を離すと、スネイプは自分の肩にハリーの頭を乗せるようにして膝に抱きかかえた。
作品名:チョコレイト・デイズ 作家名:かける