チョコレイト・デイズ
「風邪とかと同じ軽度の病気よ。いわゆる筋肉痛とか肩凝りみたいな鈍い重たさが少しずつ体全体に広がっていくの。ある一定の条件を満たした人が感染する一種の伝染病ね。初期の感染は自覚症状がないんだけど、そのときに自分の許容量を超えた難しい呪文を唱えると石みたいに固まっちゃうそうよ。なんだか切ない響きね」
ハーマイオニーは魔法使いに肩凝りって絶望的に似合わないわ、幻滅しちゃうと言った。
「でもさ、パーシーの肩凝りのひどさを見たら、きっと君でも同情するぜ」
あぁ〜そんなことより何だってスネイプの部屋の前に来ちゃったんだろう。罰をくらうなんて冗談じゃないよ、とロンはイライラ半分諦め半分で大きくため息をついた。
「五時間も先のことを悲観するより、変身学に行きましょ。マクゴナガル先生なら行かないよりマシだわ、きっと」
さっさと感情を切り替えたハーマイオニーは二人に背を向けて歩き出したが、ロンはハリーにこっそり耳打ちした。
「スネイプの部屋ってどうなってるんだと思う?」
ハリーは軽く頭を振った。
「ロン、あそこの扉を開けることだけはしないほうが懸命だと思うよ。きっと僕たち見ちゃいけないものを見るだろうし、これ以上何か起こったら今度こそスネイプにこの学校を追い出される」
「・・・・・・やっぱ、そう思う?」
ハリーは肩をすくめて、大きく頷いた。こればっかりは百パーセントの確信がある。
「ちぇー、これでスネイプの弱みを握れると思ったのになぁ」
ロンが心底悔しそうに言ったので、ハリーはクスリと笑った。ハリーだってスネイプの弱みだったら喉から手が出るほど欲しかったが、とてもリスクが大き過ぎてあの扉を開けることはできない。それにどうせ数時間後にはあの扉の中だ。
「ハリー、ハーマイオニーが怒り出す前に行こう」
どうして女の子ってちょっとしたことでヒステリーになるのかなぁ。ぶつぶつ言いながらロンが歩き出す。さばさばしたものだ。ロンもしないほうが良いことは判ってる。
朝食中にウィーズリーおばさんからの吼えメールが届くのは勘弁願いたい。まったくあれは恥以外の何物でもない。
ハーマイオニーが腰に手を当てて今にも怒り出しそうに睨んでいた。ロンに並んでハリーも歩き出す。
「けほっ」
乾いた咳が出た。
「風邪か?」
ロンが尋ねてくるのに答えようとしてまた咳が出た。
「けほっ、わかんない。なんだか喉がカサカサするんだよね。けほっ」
「気をつけろよ。あとで母さん特製ジンジャーティーを入れてやるよ。近所迷惑なくらいスゲー匂いがするけどな、効果は保証する」
「苦いのはごめんだよ」
「苦くはない。くさいだけだ」
「えー」
ロンは仕方ないだろとため息をついた。
「俺だって、好きで持ってきてるわけじゃないんだぜ。あの匂いに目をつぶれば次の日には治るんだ。あのフレッドたちでさえ文句は言うけど飲んでる。ひどくなるよりいいだろ?」
「うーん、くささにもよる」
「安心しろ。生ゴミよりはマシな匂いだ」
「ええー」
今は咳より今日の罰のことを考える方が気が重い。ため息をつきながらそっと後ろを振り返ると、思ったとおりスネイプの部屋の扉は跡形もなく消え、白い壁だけが続いている。
「・・・・・・いったい、どうやってあの部屋を見つけたらいいんだ」
ハリーはげっそりと呟いた。きっとスネイプは簡単に部屋の扉を叩かせてはくれないだろう。
古ぼけたボロボロの本やら怪しげなビーカーやらがうず高く積み重なって。
そっこら中からもくもくと煙なんかが出ていて。
奇妙な生物がかさこそ動き回っているに違いない。
そう勝手に思い込んでいたスネイプの部屋は、どこまでもクリアで、薄暗いわけでもなく、その上すっきりと片付いていて、ハリーは内心仰天していた。
こんな馬鹿な。
顎を押さえていないと口が開きっぱなしになるくらいだ。これを話したからと言って、笑う生徒がグリフィンドールの中にいるとは思えない。それくらいスネイプは悪印象の塊だ。ハリーにとって悪そのものだと言っても決して過言ではない。
やっと見つけた部屋の扉をやけっぱちで勢い良く叩いたのは約束の四十分遅れで、覚悟はしていたが夕飯もそこそこに二時間以上も探していたことになる。
むっつりしたスネイプを見て早々と気分がくじけそうになったのもつかの間、ハリーが入れるようにスネイプが体をずらしたその向こうは居心地の良さそうな、持ち主とはおよそかけ離れた暖かそうな雰囲気の部屋が広がっていた。ハリーはスネイプがいらだたし気に扉を叩いたのにハッと気づいて、ギクシャクと部屋に入ったのだった。
落ち着いた茶色の木の床は年代に応じてにぶく光り、歩くたびにコツコツと音がした。木棚の上にある金色の洗面器のようなものからポッポッと湯気が出ているのは、部屋を乾燥させないための加湿器の役割を果たしているようだ。部屋の主は意外に細やかな神経をしているらしい。
中央のどっしりとした大きな木製のデスク上には何本も羽ペンが立てかけられ、使い込まれたインクつぼが紙のおもしになっている。中央に数冊の本が開きっぱなしになっているのは、何か調べ物をしていたからか。小さな金色の置時計横には藤のかごがあり、赤く熟れた小ぶりのリンゴが無造作に積まれていた。オレンジの炎が踊っているランプが三個並んでいるのは手元が暗くなるのを避けるために違いない。背後の厚いカーテンは深緑色をしており、ランプの光を受けてサテン生地のような光沢を放っていた。
壁の書棚には金色の文字で題名が書かれた本が背表紙を向けて整然と並べられていたが、時々勝手に入れ替わっている。ハリーが入ってきて、一瞬動きが止まったがその後は何事もなかったように動き回っていた。ひそひそとした話し声が聞こえてくるが、それはどう考えても本棚から聞こえてくるとしか思えなかった。本棚の一角には何本かのセンスの良い精巧な羽ペンがガラスケースに入れられて飾られていた。
ちらりと見えたステンドグラスの仕切り向こうには樫の木の丸いテーブルがあり、白い小さな花が生けられていた。金色の房がついた凝った刺繍をほどこされたクッションが置かれた二人がけのビロード生地のソファが二つ。そこにだけ暖かそうなじゅうたんが敷かれ、全体的に落ち着いた深い緑色でまとめられていた。
壁はいたってシンプルで、床と同じ鈍く光る木目を見せ、申し訳程度にふくろう時計がかかっていた。一時間ごとに本物のふくろうがどこからともなくやってきてはホーホーと鳴いて時間を知らせる。八時にはヘドウィグにも負けないような真っ白の、九時には立派な体格をした茶色の、十時には金色の目をしたこげ茶色のふくろうがやってきた。
そういうわけで、ハリーはもうすぐ十一時を前にして、今度はどんなふくろうがやってくるのだろうとそれだけはちょっと楽しみにしながら、相変わらず床に座ってこしこしと銀の器を神妙に磨いていた。指の先も腕も力を入れすぎて痛かったのに、器の山は少しも減っていない。
作品名:チョコレイト・デイズ 作家名:かける